故・井野隆一先生の年譜
1988年4月までは、生前に先生ご自身がまとめられたものを元に作成
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1920年
3月
東京府豊多摩郡渋谷町大向に、父碩哉、母トキの長男として生まれる
1925年
4月
早蕨幼稚園(私立、久留島武彦主宰)に入園
1926年
4月
渋谷町常盤松小学校(公立)に入学(途中1年留年)
1933年
4月
府立高等学校尋常科(7年制旧制高校の中学部)に入学
1940年
3月
府立高等学校文科乙類(旧制高校部)を卒業
1940年
3月
東京帝国大学経済学部経済学科(旧制)に入学、この問、高宮晋助教授の「日本経済論」ゼミに参加
1942年
9月
同大学卒業(戦時下短期繰上げで)
久保田美也子と結婚
10月
農林省に就職、直ちに陸軍に応召のため休職。初年兵、経理部幹部候補生を経て関西地方の気象部隊の主計少尉に
1945年
8月
終戦により復員
10月
長女美紗子生まれる
11月
農林省に復職(嘱託として)、総務局審議室勤務
1946年
6月
農林省を退職(事務官として)
10月
(財)日本農業研究所に勤務、研究員補からのち研究員に、この間職員組合書記長、委員長を歴任
1948年
10月
日本共産党に入党、以降、とくに農業問題の調査研究にも協力、78年「永年党員章」、98年「50年党員章」を受ける
1954年
11月
長男耕一生まれる
1955年
4〜6月
農協関係の農業視察団(団長・社会党衆院議員小川豊明氏)に加わり中国訪問(武漢、北京、瀋陽、天津、無錫、上海、杭州、重慶、成都)、その結果を『前進する中国の農業協同組合』(東洋経済新報社)に
1957年
4月
東京経済大学非常勤講師(58年3月まで)
1958年
3月
(財)日本農業研究所を退職
4月
東京経済大学に就職、専任講師から助教授(61年4月)を経て教授(65年4月)に。「農業経済論」「協同組合論」「経済学」などを担当。この聞、大学の教務委員長、教職員組合の委員長、生活協同組合の理事長などを歴任
1961年
7月13日
井野ゼミ「農村実態調査」(〜20日、於:岩手県花巻市)
1962年
5月
N H K教育テレビで「世界の地理----小麦」を(高校の時間、レギュラ一石井素介氏)
7月7日
井野ゼミ「農村実態調査」(〜14日、於:長野県北佐久郡御代田)
1963年
3月23日
井野ゼミ同窓会「かかしの会」結成
1964年
4月
協同組合研究大会の共通論題で「アメリカの余剰農産物と日本農業」を報告(於:協同組合短期大学)
1966年
11月
『原典解説・貧農に訴える』(青木書店)
1967年
2月
テレビ12 チャンネルで、「離農者のゆくえ」を(農業の焦点、レギュラー森雅央氏)
10月
土地制度史学会大会(法政大学)の共通論題で「農民闘争の現段階的特質」を報告、同学会評議員に(71年9月まで、および76年2月以降)
1968年
5月

『戦後日本の農業と農民』(暉峻衆三・重富健一氏と共編、新評論社)

1969年
4月

日本農業経済学会大会の共通論題で「先進国の食糧問題」を報告(於:東京農工大学)

7月

『開放体制と日本農業』(汐文社)

1970年 
4月

『農業問題研究』(青木書店)    

12月
『日本農業の国際環境』(民衆社)
1971年
10月
土地制度史学会理事に(73年9月まで)
11月

経済理論学会大会の共通論題で「戦後日本資本主義と農業問題」を報告(於:西南学院大学)

11〜12月
『国家独占資本主義と農業』上下巻(暉峻衆三・重富健一氏と共編、大月書店)
1973年
10月
東京経済大学を退職
1974年
4月

東京教育大学文学部非常勤講師、「農業経済論」を担当(75年3月まで)

6月
(財)日本農業研究所に復職、研究員に
1974〜77年
 
日本共産党人民大学・農業・農民問題講座の講義を担当(宮城・鳴子、島根・大社、京都・亀岡、北海道・旭川、茨城・水戸)
1974年〜
 
日本科学者会議東京支部食糧政策委員会メンバーに
1975年
4月
立正女子短期大学(その後文教大学女子短期大学と改称)非常勤講師、4〜9月の前期「食糧経済」を担当(79年9月まで)
6月
『日本の食糧』(新日本出版社)
11月
『現代資本主義と農業問題』(大月書店)
1976年
2月
『食糧問題の基本視角』(重富健一氏と共編、新評論社)
4月
明治大学農学部非常勤講師、「農村計画論」を担当(83年9月まで)
1977年
1月
『食糧危機はくるか』(東研)
1979年
4月
『戦後日本農業の変遷』第1巻(東研) 。『大月 経済学辞典』(大月書店)、編集委員として農業関係項目の編集・執筆に参加
6月
河相一成氏らと食糧政策研究会を開始、代表幹事の一人に。以後十数次にわたり提案をつづける。同年9月頃から日本共産党後援会の「全国学者・研究者の会」世話人、「東京学者・研究者の会」代表世話人、全国と東京の「農業・農民後援会」代表世話人、「東京第11区・八王子の会」副会長、「東京第11区学者・文化人後援会」代表世話人などを歴任
1980年
5月
父碩哉亡くなる(88歳)
1981年
11月
八王子革新懇話会発足、代表世話人に
12月
静岡大学経済学部非常勤講師、「農業経済」を担当(集中講義)
1982年 
4月
東洋大学経済学部非常勤講師、「農業経済論」を担当(83年3月まで、および85年4月から86年3月まで)
6月
『日本資本主義発達史講座』刊行50周年記念の実行委員となり、記念シンポジュウムで「農業・土地政策」について問題提起(於:東京大学)
1983年
1月
八王子市政を考える学者・文化人の会が発足し、幹事に
9月10日
井野ゼミ「かかしの会」4〜5期生の集いに出席(於:箱根仙石原樵山荘)
1984年
5月
農民運動全国懇談会世話人、85年5月より役名変更で常任世話人に(89年1月、農民運動全国連合会=全国農民連の発足で同会解散まで)、92年12月に全国農民連の顧問に
1985年
4月
『アメリカの食糧戦略と日本農業』(新日本出版社)
5月
テレビ神奈川で「貿易摩擦と食糧輸入」を
11月
日本科学者会議東京支部の東京科学シンポジュウムで「アメリカの食糧戦略と核戦略」を報告(於:明治大学大学院)
1987年
5月
『いまコメ・食糧があぶない』(重富健一氏監修、92年6月新版、学習の友社)
1988年
5月

(財)日本農業研究所理事(91年5月まで)

10月
土地制度史学会大会の共通論題で「世界農産物市場の現局面と日本の『農業危機』」を報告(於:駒澤大学)
1989年
4〜9月
社会科学研究所監修『マルクス資本論』K(4月)、L(9月)(新日本出版社)の地代編の翻訳協力
5月
非核の政府を求める会の世話人に。12月、同会のシンポジュウム「核軍拡の経済と非核の政府運動」で「核軍拡が農業に及ぼす影響」を報告(於:日本青年館)
10月
母トキ亡くなる(90歳)
11月18日 井野ゼミ「かかしの会」総会に出席(井野先生の古希を祝う会、於:霞山会館)
1990年
6月
胃潰瘍で入院(立川相互病院)
1991年
3月
(財)日本農業研究所を退職
10月
『日本農業再建の道標』(重富健一・千葉燎郎氏と共編、筑波書房)
1992年
1月
『農業問題入門』(田代洋一氏と共著、大月書店)
7月
『社会科学総合辞典』(新日本出版社)、農業関係項目の編集・執筆に参加
10月
(財)日本農業研究所創立50年記念式典で功績研究員として表彰
11月
『日本農業 存亡の危機と展望』(新日本出版社)
11月7日
井野ゼミ「かかしの会」総会に出席(於:吉祥寺)
12月
八王子市日本共産党後援会会長(99年9月まで)
1993年
6月
日本共産党中央委員会より著書『日本農業 存亡の危機と展望』に対し野呂栄太郎賞受賞
1994年
7月
妻美也子亡くなる(71歳)
1995年
7・9月
『現代資本主義と食糧・農業』上下巻(重富健一・暉峻衆三・宮村光重氏と共編、大月書店)
11月
大腸がんで入院・手術(立川相互病院)
1996年
9月
『戦後日本農業史』(新日本出版社)
1997年
5月31日
井野ゼミ「かかしの会」総会に出席(於:八王子京王プラザ)
9月
日本共産党中央委員会より著書『戦後日本農業史』に対し野呂栄太郎賞再受賞
1998年
4月
八王子学術・文化日本共産党後緩会発足、代表世話人に
以下は関係者がまとめたもの
1998年
10月
八王子市平和を愛する文化祭実行委員長、2000年10月の第3回まで
2000年
11月
「東京産直まつり」での「地場の野菜を旬に食べよう」をテーマにしたシンポジュウムで、パネリストとして「いま国民の食糧と日本の農業は」を報告。
11月26日
全国食健連創立10周年大収穫祭で、研究者代表として挨拶(於:浅草)、この時、全労連を代表して教え子の鈴木彰が挨拶。
12月10日
井野ゼミ「かかしの会」に出席(4〜5規生、於:八王子)
2001年
3月〜
新著『WTO体制下の日本農業』の執筆に本格的にとりかかる(未完)
4月11日
井野ゼミ「かかしの会」からの誕生祝い(鈴木・中村が訪問)を受ける
6月11日
発熱、吐き気などはげしく、立川相互病院に入院
7月 1日
午後4時40分、肺小細胞がんにより立川相互病院にて逝去、享年81歳