1969年6月25日     全国大学生協連発行「学協運動」第49号への寄稿

労働組合執行委員長時代(28歳)

大学生協における労使関係(私論)


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一 大学生協が直面する情勢

 

大学生協は今、かつてない程に深刻な問題に直面している。70年安保をめぐる全人民的な闘いが積み重ねられてきた反面において、米日反動勢力の側からの攻撃が極めて多面的な形で強められているからである。その攻撃は大学生協に対しては「大学・教育問題」「生活問題」「流通問題」を中心とする社会問題として具体化されているが、これらの問題は生協の組織と経営に大きく作用している。

1 大学・教育問題

政府自民党の反動的文教政策は、中教審答申に集約されるような形で、大学制度の軍国主義的再編と教育・研究内容の官僚統制の強化をおしすすめてきたが、その下で大学当局・業者を利用した大学生協規制の攻撃、トロッキスト暴力集団を泳がせた自治破壊・生協破壊等が強められている。生協の組織と経営は直接的・間接的に破壊と規制の攻撃を受けて、かつてない困難に追いこまれている。

2 生活問題

軍国主義復活・海外侵略という独占資本の野心に奉仕する自民党政府は、その基礎づくりとして人民の生活と権利の破壊に乗り出している。激しい物価値上げと重税・低賃金にさらされ、特に生活面での著しい危機に直面している生協組合員・生協労働者の立場は日本人民の立場に他ならない。こうした中で生協組合員は自然発生的な要求を多面的に実感している。生活の苦しみからにじみ出た自然発生的な要求は、生協に対して「安売り売店」としての期待を集中する傾向を持っている。この期待の集中は、たくましい生協運動への発展の萌芽を多くはらんではいるが、日本資本主義の矛盾としての生活苦を生協を通して解決すると云った幻想に止まっているために、生協経営に歪んだ圧力をかけている。

3 流通問題

独占資本による複雑な流通支配体制づくりが「流通再編成」「流通革命」と云う形で進行し、その下で著しい競争の激化が造成されている。生協経営はこの競争にさらされて極端に深刻化している。しかし、ここで大切なことは、この流通界の激動は独占資本が国家機構を動員して、独占の利益になるものは育成し、利益にならないものは競争の中で抹殺するという方針にもとづき引き起しているものに他ならないということである。元来独占資本の利益にならないばかりか不利益になろうと云う目的すら持っている生協が、その目的を持ち続けながらこの競争を乗り切ることは、並大ていのことではない。

4 生協に提示される二つの道

これらの問題は主なものを拾っただけにすぎないが、これらを通して見ただけでも、直面している情勢が、大学生協に何を要請しているかが明らかである。つまり、学内の安売り売店として「成長」し、生協組合員の自然発生的な諸要求を「満足」させる立場に立つか、それとも生協組合員の自然発生的な要求にその貫徹への道すじを示し、正しい闘争への決起をうながす中で発展するかと云う二つの道が示されている。前者の道は、学園紛争を未然にふせぎ市場を確保する上でも、「流通革命」の担い手として流通界における中堅企業となり、安定した地位を確立する上でも展望の多い道であるが、皮肉めいて云うまでもなく、独占資本の政策の貫徹に役立ち、人民の闘争を骨ぬきにする道でもある。更には生協労働者の生活と権利を生協が仲立ちになって資本の側へ売り渡そうとするものである。生協労働者はスト権を行使しても闘わねばならない。後者の道は、日常の供給活動を中心に要求を集約し、その要求を「買い物」によってだけ満すのではなく、学内民主勢力はもとより全人民の統一した闘いによって貫徹する道である。現在大学生協が当面する諸問題が、70 年安保を軸とする米日反動の側からの攻撃に起因する以上、この攻撃を打ち破る以外に大学生協が生き残る道はなく、この攻撃を打ち破る力は、全人民の統一した力以外にあり得ない。生協のゆくべき道が、かくも具体的に緊急性をおびて提起された時はかつてないだろう。

 

二 大学生協における労使関係

 

以上に見てきた情勢は、生協の組織と経営に困難な条件を与えつつ、生協が進むべき道を具体的に指し示していた。しかしながらこの情勢に対応する理事会の姿勢は、必らずしもその道をめざしていない。組織と経営にふりかかる困難を、生協労働者へのしわよせによって乗り切ろうとする方向が、組織的強化への「過渡的なもの」と説明されながら強行されている。

1 生協労働者へのしわよせの実態

生活問題を中心とする生協労働者の要求は極めて深刻化している。更に、低賃金そのもの、あるいは劣悪な就労諸条件について、改善出来るか出来ないかが労使間の対立点であった時期は過ぎ去ろうとしている。今や労使聞の争点は生活問題から権利問題まで発展しそれが一般化している。つまり生活問題での要求を経営管理体制の強化によってそらしながら、より劣悪な諸条件をはめこんでゆこうとする方向が、極めて資本家じみた方法で過求されてきているからである。経営基盤である組織ののびなやみを経営の効率向上を独自に追求することによってカバーしようとするからである。一例をとれば賃金問題である。生協労働者の統一と団結の結晶である一律 ( あるいは部分的スライド ) 賃上げの要求に対して「理事会として労働者の生活に責任をもてる賃金体系」と称する回答が出される。その内容は各大学生協が申し合わせたかのように職種給のアップであり賃金格差の拡大であり職務・職能給への一歩接近である。労働者の統一した要求をそらし、労働者の団結を弱め、果ては「賃金による人の管理」をめざしているとしか云いようがない。更に賃金の問題とからめながら、管理職者への責任転化(分裂支配)、「合理化」労働強化の攻撃が露骨になっている。職務分析、作業基準の設定、教育訓練の強化、試験制度の採用、あるいは定員削減・不補充、不採算部門の切り捨て、バイターへの切りかえ、有給休暇・生理休暇等、既得権の侵害ないしはなしくずし、等々数えあげればきりがない。そして、これらがすべて「流通情勢のきびしさ」「大学紛争による経営難」等によって説明され、一般労働者にとってはまぎれもなく低賃金「合理化」であるこれらの現象が、生協労働者にとっては「チャレンジすべき課題」「組合員への奉仕」と強調される。

2 生協労働者の立場と性格

大学生協の労使関係は、単位大学の生協組合員 ( 学生・教職員) の自主的な活動参加の中から選出された組織の代表者・指導者・経営担当責任者としての生協理事会が、組織上・経営上の自らの任務を遂行する上で必要な労働力を「雇用」と云う形でまかなおうとすることにその理論的起源を持っている。労使関係は生協理事会と生協労働者との聞の関係なのであって、そこにおける労働諸条件は、双方の力関係によって決定されるものである。使用者としての理事会が労働者に対して「生協運動の専門家として生協組合員に奉仕せよ」「流通情勢にかんがみ、より高度な作業にチャレンジせよ」と指令するならば生協労働者はいさぎよく「奉仕の作業」にも「より高度な作業」にも従事する。しかし、ここで明確にしておかねばならぬことは、まさに労働者はそれらの作業に「賃労働」として、忠実に、創意を生かして従事するのだと云うことである。しばしば理事会の側から「チャレンジ」なり「奉仕」なりが強調される場合、「生協運動の活動家として」「生協運動に指導性を発揮する労働者として」と云う期待が付帯しているのが常であるが、これは生協労働者と一般労働者、生協労働者と生協組合員・活動家を「奉仕」「チャレンジ」「指導性」などという言葉でつなぎあわせ混同し、結局、生協労働者あるいは組合員に対して理事会が果すべき任務と責任を不明確なものにする作用を持っている。少なくとも労働諸条件を中心とする労使関係においては、生協労働者は生協労働者であって、生協活動家でも一般労働者でもない。そして生協労働者の生活と権利の要求に対して責任を負うのは生協理事会であって生協組合員ではない。

もちろん生協労働者は、労使関係をはなれた場面では自主的な生協組合員であり活動家たり得る。業務命令等に左右されるのではなく自発的にである。更に、元来労働者は全人民の闘いに主体的に奉仕し、階級的指導性を発揮する歴史的任務を持つものである。これもまた業務命令や、大衆運動の指導者による指令・指示とは無関係に、自覚的にである。学校を卒業し、あるいは生協外の職場をやめて生協に入織する労働者が、自らの仕事に誇りと生きがいを持ち、生協運動に確信を持ち、更に自らが労働者階級としての自覚に燃えて活動家になってゆくには、基本的には、自らの要求を実現する闘争の過程を通らねばならない。理事会の業務命令や、労務管理の技術によって育成できるとしたら、それは「みごとな」生協が出来るだろう。生協労働者は生協を「職場」とする労働者である。全国各地の労働者と団結して階級闘争に決起する。職場の要求こそ闘いの基礎である。この要求を否定することは出来ない。職場の闘いを基礎とした全労働者階級の団結こそ、生協運動をも含めた全民主勢力の統一戦線を指導し発展させ、やがて勝利にみちびく保障である。

3 生協理事会の立場

生協理事会は生協経営の担当責任者である。経営をどうすることが責任を果す道であるのか。ひとことで云えば、資本の利益に奉仕するのではなく、組合員に代表される人民の利益をまもる経営をつくることである。たしかに資本主義社会においては、例え民主的経営と云えども資本の支配から逃れ得るものではない。しかし経営の困難がいかに大きくなっても、その困難の原因が、独占資本の流通再編成・大学再編成をはじめとする、国家機構まで動員しての諸攻撃にあることは明らかであり、この困難を根本的にとり去る力、独占資本・国家権力と対決して必らず勝利する力は、労働者階級を中心とする統一戦線の力以外にないことを常に念頭に置き、特に独占の流通支配のねらいをするどくあばき、これに反対する闘いを、統一戦線の闘争課題の中に組みこんで行く。この闘いに勝利する方向が地道に具体化されねばならない。これこそが独占と対決する生協の土俵であろう。

しかし流通再編成は、生協経営にたずさわる者の眼を奪うに十分な程の激しさを示しており、ましていわんや今日のように生協組合員の自然発生的な要求が、統一戦線の観点に結合せず、個々バラバラに存在している時に、正しい生協理念にもとづき統一戦線に奉仕する組織力は十分に発挿できない。そこから、ややもすれば生協の土俵を離れて、極めて消極的な対応としての経営偏重の傾向が生まれてくる。その証明として、総代会議案書等に、流通情勢はつぶさに分析され、これに対応するための効率向上・経営力強化の方針は具体的に(労使間の紛争をとり除く「安定賃金構想」や人員削減計画すら盛りこんだ長期経営計画なるものまで含めて)うち出されても、流通情勢そのものを、統一戦線の力できり拓いてゆく政策と展望は掘り下げられていないという傾向が現われている。組織強化・統一戦線強化をおこたり、 経営力強化をもって生協市場を拡大し独古資本と対決するという形で、独占がつくり出した競争の土俵で「じんじよう(尋常)」な勝負を出来るかのごときドン・キホーテ的方針は、まさしく正気のサタではない。生協が生協の土俵をはなれて、独占の土俵にはまりこんでゆく程度に応じて、生協労働者は「流通革命」下の商業労働者にまさるとも劣らぬ搾取の渦にまきこまれるわけである。

組織力の弱さを経営力によって補なうという意図によって、ひとたび請負主義的な経営力強化が生協経営の重点に位置づけられるや、その瞬間から生協経営は資本の理念にまきこまれ資本家的企業に転身してゆく。先に見た生協労働者へのしわよせの実態が何よりもそれを証明している。多くの反論があろう。「生協における労働強化は、定員削減も含めて、必らずしも資本家的労働強化ではない。搾取の強化・資本への奉仕などと云う指適はもっての他である ・・・」と。この反論に対しては一つだけ問題提起をしたい。それでは理事会が労働者の賃金要求に対して効率主義や財源論、あるいは奉仕論をもって「生協をまもるための低額回答」を主張する時、資本主義の法則とのかかわりはないのかどうか、例えば「資本主義社会においては個々の資本家は全資本家階級の代表者としてじぶんの労働者に対立し、じぶんの労働者が生み出す剰余価値を搾取する。どの資本家がじぶんの労働者に対する搾取を強化して剰余価値量を増大させても、結局平均利潤率が高くなって、すべての資本家が利益を得ることになる」と云う法則についてどう考えるかと云うことである。

資本の利益に奉仕しないと云うことは流通経路に喰いこみ中間搾取を封ずることと併せて、この平均利潤率を低め得ないまでも高めることに積極的役割を果さないことである。ただしこの課題も、経営力のみで実現できるものではなく、生協全体の課題として正しく位置づけて闘うべきものである。「コペンハーゲン大会のロシア社会民主党代表団の協同組合についての決議案」において、その冒頭でレーニンが下している規定はこの点で大きな示唆を与える。「プロレタリア協同組合は、中間搾取をへらし、商品供給者のもとでの労働条件に影響を与え、職員の状態を改善すること等々によって、労働者階級がその伏態を改善することを可能にする」と。

4 生協理事会の階級的性格

ではなぜ大学生協理事会は、生協の未来を決定する統一戦線とのかかわりを、経営問題において具体化出来ないのであろうか。それは前段に見たような理事会の立場上の問題にはちがいないが、より基本的には階級的性格上の問題である。「生協をまもり育てよりよき生活と平和をかちとる」と云う点で、たしかに大学生協の労使は見解が一致している。しかしこの点を一面的に理解することは理論上正しくない。生協運動を軸として生協労働者の組織と理事会が共闘課題を追求すること自体は正しいが、それをもって相互の矛盾が解消するものとして評価することは出来ない。生協労働者はあらゆる利害関係において、全国・全産業の労働者と基本的に同一であり、労働者階級の一翼を担うものであるが、生協理事会は明らかに労働者階級の一翼ではない。生協運動は労働者階級を中心とする統一戦線に結集せずには真の勝利に近づくことが出来ないことは明らかであっても、生協運働の現実は、そこに結集する大衆の意識を反映する。そして生協理事会はまさにこの生協運動の現実の中から選出された代表者・指導者なのである。理事会と生協労組との共闘は、階級闘争そのものにおける同志としてではなく、統一戦線における同志としてしか実現しない。この点をあいまいにすることは、むやみに生協における労使関係の特殊性を強調し、労働者にとっても生協にとっても、有害な幻想をふりまくことになる。

大学生協理事会は学生を中心とする生協組合員(消費者大衆)の代表者である。労働組合との団体交渉において専従理事が「私だって君たちと同じ労働者だ」と強調しても (なる程それほ事実だ!)、理事会の一員としての彼の立場は、理事会の立場によって民主的に規制されねばならない。そして理事会の思想と行動は、生協の民主的運営を重視すればする程、生協組合員の総意としての思想と行動によって規制をうけなければならない。やがて運動の前進が、生協組合員ひとりひとりの意識を変化させ統一戦線の闘士に成長させてゆくことは法則であり、理事会はその方向での指導性を発揮することによって組合員の総意をかえ、自らを労働者階級の同盟軍に位置づけてゆく手続きを実践しなければならない

しかしながら、生協組合員の中で、統一戦線への理解が十分とは云えず、分裂主義的暴力学生さえ思想的に排除しきれていないと云った未分化な総意が存在している現伏では、その総意をもって規制さるべき理事会だけが「労働者階級に敵対しない」などと云うことはむしろ奇妙である。理事会が統一戦線とのかかわりを経営問題において具体化できず、多かれ少なかれ労働者へのしわよせによって、当面の困難を避けようとするのは、大学生協が決してプロレタリア生協ではなく、現実において統一戦線生協とも云い得ないところから、避けがたいものとして表面化してくる消費者学生の未分化な階級性 (小プル的性格)に立脚しており、従って労働者階級とは縁のない組識不信、請負主義が必然的に生まれてくることに基礎を発している。大学生協の経営力量が、地域生協・労働者生協において一定に評価されると云う現実も、その経営力量がどのような経過と法則のもとで育成されたかと云う問題に関連して、その是非を検討し解明する必要があろう。

5 当面する労使関係のあり方

以上において明らかになったことは、反帝・反独占の全人民的な統一戦線の強化をぬきにして生協労働者は自らの生きる道を見出せないと云うことであり、生協もまた、この統一戦線を抜きにして困難を一掃できないと云うことである。そして、生協理事会が現伏において統一戦線への結集を具体化すると云う切実な課題に対する責任を回避し、経営力強化、労働生産性向上と云う消極的課題に、より真剣なとりくみをみせると云う形で、政策展開をしていることも明らかとなった。生協理事会はしばしば生協経営が組合員の要求に見あって発展しているかどうかを示す一つのバロメーターとして供給高、経営効率の推移等を見る必要があると主張するが、生協運動が一切の偏重を犯さず、基本的に資本と権力の利益に反するものとして強化されているかどうか、基本的な勝利の展望を切り開いているかどうかを示すバロメーターは、生協労働者の就労諸条件、生活と権利の状態が改善されているかどうかにある。そして生協理事会が現伏において生協組合員の自然発生的要求の請負者であることが当然のなりゆきである以上、生協労働者こそが、真に反帝・反独占の闘いの中心的担い手の一翼して、理事会の未分化な階級性とするどく対決し、生協を統一線の担い手として育てあげてゆく立場に立つべきものであるこを併せて強調したい。

理事会の未分化な階級性とするどく対決すると云うことは、生協労働者が「生協における労使関係」なるものにかぶせられた「特殊性」のヴェールをとりのぞき、それを利用して生協労働者におしつけられてくる矛盾に対しては、真に階級的利益を代表する立場から要求を貫徹してゆく闘いを、基本的には全国・全産業的な労働者の統一と団結の力に合流し、米日反動ののど首を見すえながら、経営内においても毅然として闘うことである。安易に理事会と妥協し、当面の犠牲に眼をつぶり経営上での消極的姿勢を許すような「労使協調路線」は、例え理事会との共闘課題を明らかにした上での路線であっても、必らず生協そのものを資本の法則の中に放置し、資本に奉仕する経営体質につくりかえてしまう結果を導き出すだろう。

以上が、生協労働者としての私が、極めて体験的に到達せざるを得なかった結論である。