1996年3月15日       釧路労連「釧路市民生協問題報告会」特別報告
釧路労連・釧路市民生協労組・釧路市民生協時間給職員労組発行のパンフレットに収録

                        生協労連書記長時代(56歳)

生協らしい再建とは?
経営破綻を克服するために            鈴木 彰


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はじめに

 「年間180億円の事業高の生協が67億円の累積欠損」という、わが国の生協運動史上かつてない事態に直面してしまった釧路市民生協のなかまに心からお見舞いを申し上げます。

 私としては、実に久しぶりの釧路訪問なのに、こういう深刻な問題が訪問の機会をもたらしたということは半ば残念です。しかしこの訪問を、こんご皆さんと一緒に事態を打開する絶好のチャンスにしたい。そんな思いでお話をさせていただきたいと思います。

 はじめに私は、今日ここに駆けつけてくださった釧(せん)労連を初め、道労連・各労働組合の皆さんが、いま苦境に立つ釧路市民生協のなかまを身近なところで励まし支えてくださっていることに心から感謝を申しあげます。本当にありがとうございます。

 私たち生協労連と生協労働組合はつねづね、生協運動というものを単なる職場としてではなく、地域社会での暮らしを守る事業と運動としてとらえようと、模索と探求を重ねているのですが、いま私たちはこの努力が決して十分でないことを苦い思いで噛みしめています。釧路の事態は、具体的な生協運動のなかでの生協労連と生協労働者のたたかいの未熟さ「いたらなさ」を反映しているのだと思います。

 しかし同時に私は、この事態は釧路だけの問題でもなければ、生協だけの問題でもないと考えています。その背景には、日本経済が庶民のくらしを踏みつけにして大企業、大資本の利益本位の展開をしてきたこと。そのもとで巨大な「バブル」が膨れあがり、そして弾けたこと。しかも、これらを踏み台に大企業が、さらに膨大なもうけを増やし続けていること。それらの結果、まじめに働く労働者と勤労国民はその暮らしと展望を著しく損なわれていること。……等などがあるからです。

 さらに私は、釧路の事態をこのような大企業本位・国民生活破壊の政治・経済のもとで起こっている問題の一つとしてとらえることが、実は、生協の事業と運動のあり方を考えるうえで非常に重要なことであると考えています。そもそも生協運動は、そういう状況のもとで困難にさらされている庶民が、大企業本位の経済運営に抵抗し、暮らしと平和を守り、地域社会を発展させようという運動です。生協運動がそれらの目的に向かって十分に力を発揮できないまま、釧路のような破綻におちいるというのは、私たちがめざしている生協運動のあり方に照らしても重大な問題なのです。

 いま釧路の事態について、破綻の原因と責任を生協内で追求するのは当然ですが、同時に地域的・社会的な条件と情勢を広く深く正確にとらえる必要があります。今日私は釧路で起こっている事態をこのような視点からとらえなおして、お話ししてみたいと思います。事態を、可能な限り立体的・総合的にとらえ、そこから、私たちの胸に落ち納得の行く解決の道すじ、釧路市民生協の今後の発展の道すじを探り出したい。……これが今日の私の話の大筋です。

1、釧路市民生協の軌跡

 釧路におけるこの事態は、どのように生成してきたのでしょうか。全国の生協はそれぞれに、さまざまな生まれ方・育ち方をしていますが、釧路市民生協の場合は、太平洋炭鉱の労働組合の臨時大会決議にもとづいて、1954年9月29日に「太平洋炭鉱職域生協」として結成されました。

 その後、炭鉱「合理化」によって職域の炭鉱労働者の数が急速に減少していく時代を迎えて、1961年に職域の枠を超えて市街地にも店舗を展開。地域と住民のなかに事業を広げて、72年に「釧路生協」と名乗ります。この動きの背景には、生協経営の都合や、母体の太平洋炭鉱労組の利害や、地域の政治的・経済的な諸勢力の複雑な力関係がからみ合っていたのだろうと思いますが、ともあれこのようにして職域生協から地域生協への生まれ変わりをめざした「釧路生協」は後に触れるように、職域生協(地域勤労者生協)の弱点を根強く残したこともあり、73年に大きな経営破綻を経験します。そしてこれを克服するために、これも後に触れますが、隣の札幌ですでに破綻に直面していた「急速成長」路線を事実上直輸入し、75年に「釧路市民生協」として「躍進」を期したわけです。

 この前後の事情を明らかにするために、あれこれの資料をつなぎ合わせて「年表」のようなものをつくってみました。

 

      1954年9月29日 太平洋炭鉱労組臨時大会が生協設立を決議

         54年11月   太平洋炭鉱職域生協として2店、1理容。翌年、桜ヶ丘・益浦・知人に開店

       58年     炭住街の消費拠点として、衣料部新設、理容部増設

       61年          炭鉱「合理化」のもとで市街地にも店舗展開

       72年4月   太平洋商事鰍吸収し釧路生協となる

       73年     経営破綻

       75年4月   釧路市民生協に改称しスクラップ&ビルド(市内22店を81年までに13店に)

       75年4月   釧路市民生協労組(菊池委員長)が生協労連に加盟

        76年2月下旬 桜ヶ丘ショッピングセンター開店。総工費6億5千万円、売場面積3,400平米、

             テナント17店を入れ19億円の売上げをめざす。

         3月20日  富士見地区新店オープン計画を北海道新聞に批判される。

工費6億円、売り場面積2,460平米、富士見商店街(34店)が反対運動。

             3月22日 道議会予算特別委員会で釧路生協の大型店出店中止申入を確認。

札幌・小樽・苫小牧の大型化が地元商店街とのトラブルを触発しているなかで世論が注目。

         9月7日 札幌市議会が「生協・農協も含む大型店出店指導要綱制定決議」(地元民商の「大スーパー進出反対」の請願につき、

社・共両党が「可決」を求めたのに対し、自民党などが議員提案によって強行可決。

これを契機に全国で「生協規制」が強まる。

        77年夏    富士見店開店問題で商業者が反対デモ

        78年1月   富士見店オープン(小型3店をスクラップ)、中央店改築(売場1,600平米)

          81年    中央店の大幅拡張計画に北海道新聞が批判(拡張計画は売場面積5,800平米、8億8千万円の事業めざす。

商圏内組合員を4千人として1人当72万円)

……春採中央商店会(22店)は「78年の中央店改築後売上が横這い」と拡張反対の署名運動。

        83年3月   愛国店オープン

       84年     道・地元市町村・商工会議所・全商連・生協の5者で「生協活動調整協議会」設置

新谷(あらや)組合長没、累積赤字12〜13億円に。中村専務(当時59歳)、真鍋常務ら常勤役員会が「財務強化対策(8.95億円)」として土地建物の含み益で累積赤字消しこみを開始。

       86年        供給高126億円(前年比96%)、内共同購入30億円ていど。出資配当6,000万円、配当後赤字3億円と言われる。

     87年    組織防衛3カ年計画。87春闘で、賃金凍結、営業日拡大(閉店日14日⇒4日)、指定休減(16日⇒8日)、

2店閉鎖(1店当セ1人、パ8人)、釧路通商へ事業移管など提案。

       90年     常勤役員会が粉飾決算開始(?)

 93年    内部調査で決算内容の改ざんが発覚(累積欠損40億円)。真鍋専務とT担当常務の辞任と退職金支給

 

 こうして釧路市民生協は、76年の桜ケ岡ショッピングセンター開店、富士見地区の新店オープン(これは地元で商業者ともめて開店が遅れました)などを通して、いままでこの地にはなかったような大規模な商業施設を、生協が先鞭をつけるかたちで地域につくり上げていきました。地域の中小商業者や商店街を駆逐して店舗を広げるという釧路市民生協のこのようなやり方は、「生協事業のあり方としてどうなのか」「地域経済の発展にとってどういう影響をおよぼすのか」という物議をかもします。当時の北海道新聞や釧路新聞は、今日の釧路の事態に対する報道と非常によく似ているのですが、当時の板鼻副理事長が「商店街の売上げ鈍化をすべて生協の責任とする見方には納得できません」と力説するインタビュー記事(『なぜですか生協の膨張』)、これを商店街や消費者団体のリーダーたちが批判する特集記事などを連続して載せています。

 また、73年に「大規模小売店舗法(大店法)」が制定され、これにもとづいて大規模小売店の進出に対する規制・調整を行なうための「商業活動調整協議会(商調協)」が、各地域・地域につくられていましたが、釧路市民生協の大型出店は、北海道議会が出店に「待った」をかけ、直接的に生協を対象とする商調協として「生協活動調整協議会」というものが設置されるなど、政治問題にまで発展していきました。

 

       <注>  さらにこの政治問題は、その他いくつかの地域で発生していた同様の「生協店舗をめぐるトラブル」と結びつけら

れ、全国的な「生協規制」攻撃というかたちで政治的に利用されていきます。ここで重要なことは、生協組合員・地

域住民の合意形成を軽視する生協事業は、一面的な事業拡大至上主義・経営偏重主義などの「歪み」に陥るというこ

と。そして、このような「歪み」は、生協組合員・地域住民による「社会的な批判」を呼び起こすばかりではなく、

これを利用する「反生協運動」「生協規制攻撃」をも呼び起こすということです。

 

 こうして流通「再編成」に乗じて大規模化とスクラップ・アンド・ビルドを進めようとした釧路市民生協でしたが、社会的な批判と「生協規制」攻撃によって思うにまかせず、その後の曲折を経て今日の破綻に至るわけです。しかも破綻にいたる道のりは、その過程にあった「バブル経済」によっていっそう破滅的なものとなりました。いっそうの投資の拡大と施設の大規模化、他人資本への極度の依存、生協組合員の団結力を超越する経営規模の拡大などが累積したわけです。これらを支えるだけの経営力量がないままにバブルがはじけ、そして「粉飾」から「破綻」へ。……これが大ざっぱな経過だろうと思います。この経過は、釧路のなかまの労働条件にも重大な影響をおよぼしました。とりわけ破綻が深まった近年、一時金も春闘賃上げ率も系統的に引き下げられています(下表)。

 

            近年の釧路市民生協の労組と定時労組の賃金闘争

 

          

正規労働者

パート労働者

 

 

94年末一時金

95     

95夏季一時金

95年末一時金

2.53月(前年2.55)  467,797円

1.34%(前年1.60)   3,250円

(前年2.00)        

2.48月(前年2.53)  464,662円

0.56(前年    ) 34,473円

1.49(前年    )    9.4円

0.20(前年0.25) 14,728円

0.56(前年0.56) 54,700円

 

 

 いまにして思えば、釧路の破綻は、これら労働条件の抑制のなかにすでに表面化していたわけです。それは73年の破綻いらいの「負の遺産」だったかも知れませんし、少なくとも93年の内部調査(年表参照)で決算内容の改ざんが発覚した時点で完全に姿をさらしたはずでした。93年当時、すでに累積赤字が40億円を超えていることが明らかになっりました。にもかかわらず当時、事態の真相と責任は明らかにされず、それに対する改革の措置もとられませんでした。それだけではなく、これは恐るべきことなのですが、当時の経営責任者がしっかりと退職金も手にして辞任をするというかたちで、あいまいにことを済ませてしまったのでした。こうしてその後の執行部が粉飾決算を引き継ぎ、累積赤字が67億円という、とりかえしのつかない事態になるまで膨脹させてきたわけです。

 「なぜあの時、あのようなあいまいな処置に終わったのか」「「膨大な欠損金はいったいどこへ流れたのか」……これらの疑惑はまだ明らかになっていないわけですが、その被害を一身にかぶせられようとしているのが、暮らしを守るために力を合わせてがんばってきた生協組合員であり、生協運動を身をもって支え奮闘してきた生協労働者であり、生協を信じてその事業を支えてきた取引業者です。釧路の事態こそ、これら生協運動に期待を寄せる多くのなかまたちに莫大な「負の遺産」を背負わせ、ついには巨額な負担を押しつけるという、もってのほかの事態であるわけです。

 こういう経過を見ると、生協運動はそのときそのときをどう過ごさなければならなかったのか。そして、そのときそのときをきちんと過ごさせるために、生協労働者や生協組合員は何をしなければならなかったのかということが明らかになってきます。いまの釧路では「何をいまさら」という思いも強いと思いますが、今後の正しい再建の道を探り出すために、どうしてもこれらの点をつかんでおく必要があります。

2、生協における経営難の経験と教訓

 生協はもともと大企業でも何でもないわけです。生協は、地域の住民たち、暮らしを持つなかまたちが、自分たちの暮らしを守るために力を合わせる場です。いま手にすることのできる賃金を元手に、よりよい暮らし、安定した平和な環境を実現するための事業と運動をつくりだすのが生協です。

 もともと大企業でも何でもない生協は、歴史の現実を見ても、資本主義の発達のなかではたえず虐げられてきました。資本主義の発達のなかで、たえず置き去りにされる労働者の賃金と国民の暮らしを何とかしようと、力を寄せ集めるのが生協運動ですから、それは大企業によって常にないがしろにされ妨害されるわけです。

 そのような条件のなかでたたかうのは、生協運動の当たり前の道筋であり、生協運動の存在意義であり、そのようなたたかいを通してこそ生協運動は発展してきたと思います。次にそういう見地から、戦後の生協運動の歴史を、おおざっぱに3つの時代に区切って振り返ってみたいと思います。

(1)買い出し組合の時代

 まず戦後まもないころ、みんな食うや食わずの時代。戦争が終わって、そのなかで仕事を持たない人たちまで含めて、たいへんな生活難とパニックが日本経済を覆っていた時代に、何とか食糧だけでも確保しようと、無数の生協が生まれました。いわば戦後の生協運動は食糧確保運動から始まったと言っても言い過ぎではないぐらいです。

 地域・職場のなかまたちが、みんなでなけなしの、お金がなければ家にしまってあった着物のようなものを持ち寄って、代表者がそれをリュックサックに詰めて農村地帯に出かけていって、コメと取り替えてくるというやり方で、何とか口をすすいだ時代に、生協運動は大きな高揚期をむかえた。これが「買い出し組合」の時代です。

@ 日協同盟の初心1945年11月18日創立)

 戦前から生協運動の芽はありましたから、そういう時代の指導者たちが、賀川豊彦などを中心に集まって、当時は新しかった「買い出し組合」のエネルギーを結集し「日本協同組合同盟」をつくった。これが「買い出し組合」の時代の大きな特徴です。

 1945年、終戦の年の11月18日に、日協同盟と略称されている「日本協同組合同盟」がつくられました。それは以下のような「創立宣言」と「決議」を掲げました。

 創立宣言……「我等は時代を貫き、人間と国土を通じて変わることなき信条のもとに屈せず妥協せず、正義の前に厳然として遂行せずんば止まざるたぐいなき情熱を以て戦いを闘わん」。職域協同組合組織に関する決議……「協同組合運動が資本主義的経済機構を止揚するものとして進展するがためには、その重要な基盤を労働者および俸給生活者におかなければならない」。つまり、生協運動は「正義の前に厳然として遂行せざれば止まざるたぐいなき情熱を以て闘う戦い」であり、「資本主義的経済機構を止揚するために労働者に基盤を置く運動」であることを明らかにしたわけです。食糧確保のために色いろな人たちが生協に結集していた時代、戦後の生協運動の出発点において、これらのことを明らかにしたのは、その後の運動の展開に大きな教訓と影響をあたえるものでした。

 だから、その時代の生協運動は、労働者の多様なたたかい、ストライキを含むさまざまなたたかいの盛り上がりと結合して、大きく前進することができたんです。

A 買い出し組合の弱点

 しかし、この時代の生協運動には重大な弱点があり、情勢の変化のなかで、次第にその弱点が表面化していきました。

 その第1の弱点は「物取り主義・経済主義」でした。当時の生協の多くは「食糧確保」が目的で生まれたために、経済が少し安定して、食糧が確保できるようになると、エネルギーがなくなってしまった。ちなみに、いま全国で日本生協連に参加している生協が 700ぐらいあるんですが、戦後は隣組や労働組合がそれぞれに生協をつくり、6千から7千の生協が生まれました。深刻な食糧難を背景に、食糧の「買い出し」を求める組合が無数に生まれ、食糧難の緩和と同時にたちまちにしてつぶれていった。こうして、日協同盟を支える単位生協はバタバタとつぶれていったんです。

 第2の弱点は「団体主義」。当時の生協の組織形態は、労働組合単位、町内会・隣組単位での一括加入が普通だったのです。そのため、生協経営が破綻し、倒産の危機におちいると、これを支え抜くような生活の場からのエネルギーがなかなか組織できなかった。このような組織形態は、実はいまでも協同組合運動のなかに根強く残っています。労金とか労済生協とかは、当たり前のように労働組合が団体加入をして運営していますし、釧路市民生協など職域生協「出身」の生協にもその名残が見られます。

 第3は「三無主義」の弱点です。「三無主義」と言うのは、@施設も設備もない、A経営管理の技術も能力もない、Bお金も財産もない、ということです。素人が集まって「買い出し」に行くというレベルで止まってしまったわけです。そのため、情勢が変化して「買い出し」の必要が弱まると、もうお手上げで、どんどんつぶれたわけです。

B 困難打開への努力

 そういうなかで、「どうしたらいいんだろうか」ということで、さまざまな模索がされました。生協運動を持ちこたえさせるためにはこのままではいけない。もっと力を付けなければならない。「どんな力を、どうやって付けるのか」というわけです。

 その模索の1つが「商人吸収」と言う運動でした。それは「地域に蓄積されている商業者の力を借りる」ために、生協を地域の商業といわば「合併」させると言うものです。つまりそれは、商業者の技術にすがって生協を強めようという模索でしたが、結局は失敗するんです。それは、一方では「商業主義」によって生協運動を歪めるものであり、他方では生協を商人たちに売り渡すものだったからです。商業者は、一定の出資金を出して生協運動に参加してくるんですけれども、彼らは慈善事業を営んでいるわけではなく、やはり利益を求めて商業を営んでいるわけですから、そういう人たちと、扶け合いのために非営利事業を営もうとする生協が同じ枠のなかに入っても、生協は結局だまされたり、のっとられたりしてしまう。最後には商業になってしまったり、結局、生協組合員の財産を失なったり、ときには財産を持ち逃げされたりという辛い経験をしながら、この路線は失敗だったということをつかんでいくわけです。

 もう1つは、たえず資金不足にさらされている生協を何とかしようと言う「資金難打開の運動」でした。この運動はやがて協同組合銀行「労働金庫」をつくる運動として大きく実を結んで行きます。

 3つ目が「地域勤労者生協づくり」。これは生協運動の主体である生協組合員の組織のありようについての改革でした。いままで「団体主義」の枠のなかに閉じこめてきた組織を、「地域勤労者生協」というかたちに生まれ変わらせ、地域で生活している人たちに基盤を置いた組織をつくろうという運動です。現実にはそれは、極めて不徹底にしか進展せず、労働組合による団体加盟は「地域勤労者生協」のなかにも引き継がれてしまうわけですけれども、この時期に「地域勤労者生協」という名で、いわゆる職域生協が続々と生まれました。

 4つ目が「生協労組づくり」です。1947年、最初の生協労組として、灘購買利用組合従組(現在のコープこうべ労組、5月4日結成、於:灘中講堂、春木秋廣委員長)と、東京大学消費組合従組(現在の東大生協労組、秋に結成、於:東大、三木委員長)が誕生し、労働者の立場から、生協労働者の生活と生協運動の防衛のために立ち上がりました。

(2)地域勤労者生協の時代

 釧路市民生協の前身である「太平洋炭砿生協」も、まさにこの時期に生まれたわけですが、もう少し詳しく「地域勤労者生協」の生成発展の歴史をとらえておきましょう。

 1952年、鳥取県で西部勤労者生協が生まれたのが出発点になって、名だたる生協、有名な鶴岡生協(現在の共立社)など多くの生協がこの時代に、地域の労働組合の援助を受けながら「地域勤労者生協」として、従来の「買い出し」組合から一歩前進したところで創立されました。こういうかたちで「地域勤労者生協」は発展したわけです。

@ 日本生協連の初心1951年3月20日創立)

 1950年代早々のこの時代は、暮らしと平和を守る問題が大きくクローズアップされた時代です。朝鮮戦争がもたらした「第三次世界大戦」の危険を防がなければならない。戦後の経済復興のなかで極度にないがしろにされている労働者の暮らしを守らなければならない。……52年に電産スト、炭労スト、54年には日鉱室蘭争議など、労働者の争議が大きく盛り上がっていく時代でした。そういう時代に、一方では「買い出し組合」が次々につぶれ、他方では労働者としっかり手を結びながら「地域勤労者生協」が前進していく。そうなると、これまで「買い出し組合」に支えられてきた日協同盟は力を失ない、新しい時代の「地域勤労者生協」の軸に座る全国連合会を再編成する必要が生まれてきます。こうして1951年の3月につくられたのが、いまの日本生協連です。

 ここでひとつ頭に残しておいていただきたいのは、日本生協連の創立にあたって確認された「2つの宣言」の以下の文言です。

 創立宣言……「平和とよりよき生活こそ生活協同組合の理想であり、この理想の貫徹こそ現段階においてわれわれに課せられた最大の使命である。…われわれは新しい出発に際し、日本における生活協同組合運動の苦闘の歴史を正しく継承する」。平和宣言……「平和の保証がなければ勤労大衆の生活権の擁護は絶対に達成されない」「われわれは……生活協同組合を通じて世界平和と勤労大衆の生活の擁護のためにたたかうことを誓う」。

 つまり、戦後の一つの時代を経て、朝鮮戦争などが勃発するような時代に新たな出発をした日本の生協運動は「平和とよりよい暮らし」を第2の原点として掲げたのです。先ほどの日協同盟が立ち上がったときには「労働者に基盤を置くこと」を第1の原点として掲げたわけですけれども、日本生協連は、これに加えて「平和とよりよい暮らし」を生協運動の原点に据えた。このことをぜひ覚えておきたいと思うわけです。

A 地域勤労者生協の弱点

 しかし、この時期につくられた「地域勤労者生協」は、先ほども触れたように、必ずしも「買い出し組合」の弱点を払拭するものとはなりえませんでした。その「改革」は不徹底に終わり、結局、重大な弱点を抱え込んでいました。そして、これらの弱点が災いをして1960年代後半、日本経済が不況に見舞われていく時代に「地域勤労者生協」は、軒並み経営困難という事態におちいるんです。その事態を重視した日本生協連は1960年の第10回総会で「地域勤労者生協の弱点」として以下の7点を指摘しました。

 @ 労組の決議にのみ依存するため、無関心な組合員が多く出資金が少ない。

 A 労金からの借り入れによりはじめから実力以上の会館を建て、毎月莫大な金利に追われている。

 B 組合員の教育活動・組織活動が軽視されている。

 C 機関運営がなされず、常勤役員の独裁にまかされている。

 D 経理の公開が守られず、決算書に粉飾が行なわれるむきがある。

 E 常勤役員の経営能力が不足し、採算度外視の経営が行なわれている。

 F 職員教育がなされず、秘密主義で職場が暗い。

 後に私たち生協労連は、これらを以下の「3つの弱点」として整理します。

 1つは、上記@〜Dに関わる「組織関係の弱点」です。多くの生協が、あいかわらず労働組合による団体加入に依存していたために、地域の労組の決議によって生協が運営される傾向が根強くあり、その結果、生協に対して無関心な組合員が多い。労働組合員としての自覚はあっても、生協の組合員であるという自覚が育たない。1人何十円という出資金を労組がまとめて払ってしまいますから、自分が生協の組合員だという自覚がない。生協は会社の購買部みたいな感じでしか受け止められない。そんなことで組合員が無関心ですから、当然のことながら出資金が増えない。だから、たえず資金が不足する。そこで、資金不足を打開するために、生活難にあえぐ労働者の力を組織して労働金庫を設立する。それはそれで意義のあることではあったのですが、生協はこの労金との間に慣れ合いを育ててしまうんです。労働組合の「身内」同士と言うことで、生協が労金からどんどん金を借り入れて会館を建てるのが流行します。多くの職域生協はここで「生協会館」を持つんですが、それが実力以上のものであり、毎月莫大な金利に追われることになります。

 さらに、組合員教育や組織活動がほとんど無視され取りくまれない。生協としての機関運営をまともにしない。その結果、生協の常勤役員がファッショ的支配(いわば天皇制)を敷いてしまう。こういうことで日本全国の各「地域勤労者生協」にはそれぞれに「天皇陛下」が座っていると言う、非民主的な運営が常態化していきました。そして「天皇」が自分の威信のために、経理の公開をしぶり、決算書に粉飾を重ねる。そうこうしているうちに、行き詰まってしまい、つぶれていく生協が多かった。

 2つは、Eに関わる「事業関係の弱点」です。常勤役員の経営能力がほとんどなく、労働組合からの「天下り」幹部で生協が運営されていく傾向が強かったために、採算度外視の運営がされる。地域でもっとも影響力のある労働組合の幹部が、退任したあと老後を過ごすために生協の理事長や専務理事になってくる。職域系の生協には、いまでもそういう名残りが少なからずあるわけですが、そんなかたちですから「自分の任期中に不祥事さえ起こらなければいい」「自分が去ったあとに洪水が来ればいい」ということで、自分の任期中は粉飾でごまかしていってしまうわけです。

 だから、経営のトップが経理の書類を風呂敷に包んで毎日持って帰る。経営状況を生協組合員にも生協労働者にも見せない。こんな状況が多く見られました。

 3つは、Fに関わる「労使関係の弱点」です。職員教育もされない。秘密主義で、職場が暗いという問題は、今日にもけっこう通じるわけですが、そういう状態が当時は当たり前でした。そもそも戦後日本には天皇制と言うものが根強く温存されたわけですが、一方の極に天皇を位置づければ、その反対の極には著しい差別がつくりだされ、そういう社会状況は、生協運動のなかにも強く反映していました。専務理事が職員を「おい小僧」と呼ぶような世界が、生協内部にも展開されていたわけです。こんななかで、生協が民主的な活力を失い、やがて自滅していく条件がつくられてしまいました。

B 困難打開の努力

 これらの弱点に対する反省が、いま生協労連が言う「3つの民主制」なのです。組織関係、事業関係、労使関係で、徹底的に民主的な状態がつくられないと生協は重大な過ちを犯す。……先ほど、日本生協連の第10回総会が「地域勤労者生協の7つの弱点」を指摘したことを見ましたが、当時の生協運動は、このような弱点を少しでも防ごうと、さまざまな模索をした形跡を残しています。

 第1に「組織関係の民主制」の模索です。たとえば1962年のことですけれども、日本生協連の第12回総会が開かれました。このなかで、生協運動はもっと力を入れて「班」を組織しようという方針が決議されるんです。それまでにすでに、鶴岡などで先進例がつくられていたわけですが、そういうものに学び「班組織方針」が掲げられたわけです。

 つまり「地域勤労者生協」ということで労働組合の団体加盟に依存してきた組織のあり方を改革して、「班」を中心とする生協独自の組織を確立しようという方向が、ようやく本格的に意識され、「組織関係の民主制」の追求がはじまったわけです。それまでの職域生協が「地域化」を工夫し、地域生協に生まれ変わろうという努力も始まります。いちばん早かったのは宮城県の学校生協(現在はコープみやぎ)、教職員の人たちがつくっていた生協です。

 また「単に生協のなかだけで突っ張っているのではダメだ」ということで、地域の消費者運動との連携という課題が強く意識され打ち出されていきます。1961年には、消費者団体連絡会(消団連)がつくられ、生協はその中核となっていきます。組織関係での模索として、生協が自らの組織を持ち、自らの機関運営を持つ。それと同時に、地域の消費者たちと連帯をする。労働組合の手のひらのなかから抜け出していくわけです。

 第2に「事業関係の民主制」の模索。それは、大阪労組生協(53年9月創立、信販事業を行なう広域生協)、酒田勤労者生協(56年12月創立)、小郡生協(48年に国鉄小郡生協として創立、53年に地域化)などの「地域勤労者生協」の展開を基礎に、多様な展開を見せました。まだ模索ですから、行ったり来たりしているわけですが、いちばん典型的なのは、1962年の灘生協と神戸生協の合併。事業の規模を大きくするための「合併路線」がここから始まり、多くの生協が組織統合に走っていきます。あるいは、当時は生協のなかに占める大学生協の比率が非常に高かったんですが、この大学生協で、その後の地域生協の経営にも大きな影響を与える「同盟化」路線という事業連帯が追求されます。これらはつまり、生協同士が力を合わせてやっていこうという工夫でもあるわけで、単協の枠をこえて追求する「協同組合間の協同」でもあったわけです。

 第3が「労使関係の民主制」の模索。重要なことですが、それは、経営者の側、生協の側から始まったわけではありません。それは、労働者の側から始まったのです。どのようにして始まったか? 日頃「天皇制」のもとに置かれて「小僧」呼ばわりされている労働者が、生協の民主的なあり方について意見を言うのは並大抵のことではありません。一人ひとりバラバラにされて支配・管理されている労働者に「生協は生協組合員と生協労働者が民主的に知恵を集めて運営をしていくべきだ」などと言えるわけがない。そこで、労働者の力を結集して、集団的な「もの言える力」「たたかう力」を確立する必要が切実になり、やがて全国・各生協で労働組合づくりがとりくまれます。そして、生協労働者の全国組織が相次いでつくられます。1957年に「大学生協労協」(23単組 906人)の結成。60年というのは「安保闘争」の年ですが、この年に「日生協労協(日本生協労働組合協議会36単組2,390人)」がつくられ、64年には「労済労協(16単組 142人)」も結成されます。

 これらの組織が中心になって、当時バタバタとつぶれていく生協、あるいは「つぶれないために」労働者へのしわ寄せを重ねる生協、などの動きに歯止めをかけるたたかいが始まります。いくつかの例を紹介しておきます。生協労連がつくられる「夜明け前」の時代ですけれども、たとえば63年、宇部窒素生協で、それまで生協直営だったクリーニング部門を業者に委託化することで身を軽くし(いまで言えばリストラです)、これに抵抗し色いろな意見を言う労働組合委員長を解雇するという攻撃が起こります。これとたたかう宇部のなかまに対する全国からの支援闘争が初めて取りくまれました。

 翌64年には、鳥取の東部生協で35人の大量配転がありました。労組の委員長も書記長も含めて配転をする。12人の課長全員を非組合員にする提案が出される。もっとすさまじいのは鳥取西部生協です。この生協は「地域勤労者生協」のはしりの役割を果たした生協ですけれども、ここでは、労働組合が言うことを聞かないから、生協がオルグをして労働組合を分裂させるというかたちで、生協で初めて「第2組合づくり」が行なわれました。

 これらさまざまな攻撃にさらされて、生協労働者はたたかいにたちあがったわけです。

 そのなかで一つのエポックとして私たちが大切に語り伝えているのは、酒田生協での店舗閉鎖とのたたかいです。私はこのたたかいには、単組の役員としてかかわっただけでしたから、後に生協労連の役員になってから学んだり調べたりしたのですが、このたたかいは生協労働者のたたかいの「ルーツ」の一つです。実は去年の秋、このたたかいの地元=共立社のなかまが「酒田闘争30周年」を祝おうとしていたんですが、そのたたかいのときに活躍された共立社の橘さんが突然亡くなったこともあって、開催を延期しました。実は、明日と明後日、鶴岡で「30周年を記念しながら亡き橘さんを偲ぶ会」を開くことになっていて、私は帰りにそこに寄るつもりでいるんです。

 そういう意味で私は、この「酒田生協再建闘争」と釧路のなかまのたたかいとの因縁をいま強く感じているのですが、30年前(56年)の5月のある朝、いつものように出勤した酒田のなかまは、店舗がくぎづけされ「14人の労働者全員は今日から出勤する必要なし」という貼り紙がしてあるという事態にぶつかったんです。当時はこんなことが自由自在にされていたわけです。これはつまり「倒産宣言」であり、問答無用の「解雇通告」だったのですが、14人の労働者はここからたたかいに立ち上がり、1年半かけて店舗を再開(66年11月)し、それからさらに2年半かけて生協を再建(69年3月)したのです。「酒田から生協の灯を消すな」というスローガンを掲げ、のべ4年におよんだたたかいでは、酒田のなかまは全国をオルグ・行商して歩くなどの「争議団活動」にとりくみ、当時まだ2千人ぐらいの組織であった生協労協がこれを支持しました。そのなかで 600人の「酒田生協守る会」がつくられ、全国から延べ30人のなかまが酒田にオルグに入り、当時の金額ですけれども38万円の募金が集まりました。

 このたたかいは、「生協労働者は、生協経営者つまり理事会にすべてを任せておいてはいけない」「たえず自らの要求にもとづいて生協を見つめていなければいけない」「理事会任せにして、もっとも手痛い目に遭うのは生協労働者自身だ」ということを、全国の生協労働者に思い知らせたたたかいでした。このたたかいを通して生協労働者は、「自らの要求を明らかにし自らの暮らしを守ること」「生協運動をきちんとチェックしそれが正しく発展するように見つめ続けること」「いざという時には自分たちでそれを建て直す必要があること」などを語り合い、これを系統的に追求する出発点をつくりだしました。

 このとき語りあわれた言葉に実に教訓的な言葉があります。それは「経済的再建は組織的再建なくしてはあり得ず、組織的再建は思想的再建なくしてはあり得ない」と言う合い言葉です。つまりは、生協を経済的に再建しなければならないけれども、その再建は生協組織がガタガタの他人依存型のままではダメだという意味です。ここで「思想的再建」というのは、「思想・信条の自由」を旨とする労働組合としては「大胆な言葉」なのですが、この言葉の意味を「労働者階級の立場に立つ」こと、ひいては「反労働者的な思想とたたかう」こと、したがって「労働者として生協運動を発展させる願いを基本に据える」ことと考えると、この言葉には多くの教訓と蘊蓄(うんちく)が込められていると思います。

 労働者と国民の「切実な要求」を瞳(ひとみ)のように大切にし、それを実現するための「統一と団結」を前進させる、……労働者の立場とはこのようなものであり、これを妨害し破壊するのが「反労働者な思想」であるとすれば、労働者はこれとたたかうために、一人ひとりの真剣な要求を受け止め合い、相互に理解し合いながら、そのなかから一致点を探り出していくという作業にどうしてもとりくまなければなりません。この「一致点を探りそれにもとづき統一してたたかう」という課題は、労働者と労働組合運動が避けて通れない課題であると同時に、生協運動や市民運動がそれぞれの目的を果たすうえでも軽視できない課題です。労働者と労働組合は胸を張って、生協運動に対しても世間に対しても、このような方向を提起して行かなければなりません。

(3)地域市民生協の時代

 こうしてわが国の生協運動は、「地域勤労者生協」の弱点を総括し、その克服と新しい時代への対応を期して奮闘を重ねます。その旺盛な模索と探求は、いわゆる「地域市民生協」づくりというかたちで実を結び、わが国の生協運動に史上空前規模の組織と事業とをもたらし、暮らし・平和・民主主義をめぐる多様な運動を前進させました。しかしこの「地域市民生協」もまた、新しい時代の諸条件のもとで、紆余曲折をたどったのです。今日は、時間がありませんから、以下の「レジメ」に目を通していただくことにして、お話は省略させていただきます。いわゆる「急速成長路線」や「落下傘方式」の発生とその破綻、これを克服するための生協組合員の奮闘、生協労連を結成して「生協運動の3つの民主制」「生協労働者の2つの使命」を追求した生協労働者のたたかいなどを、この「レジメ」の中から読みとって下さい。

 

   1、地域市民生協の草分け時代

     (1)1964年11月の跳躍と「急速成長」路線の発生

         第1回消費者大会(11月9日)

          京都洛北生協創立(11月27日)     これを契機に全国で地域市民生協づくりはじまる。

         65年=札幌・所沢(12/14)、 69年=東京・名勤、70年=宮城・盛岡、73年=東都

        札幌市民生協創立(65年7月18日)と「急速成長」路線の発生  330平米タイプ2店舗(大学村店・桑園店)、

職員10数人、10〜15時間労働、事業高1億円弱で出発し、以下の「急速成長」路線を掲げた。

@ 目標……ビッグストアによる寡占時代への対応、 1%生協の克服、 100万都市札幌で人口の1割を組織する、     食料品流通の1割を担い、 業界第1位めざす。

               A 組合員組織政策……班を圧倒的に多く組織するがとりくむ運動は限定する

(物価値上げ反対運動の対象も生協取扱い商品に限る)。

               B 財務政策……供給高の年率100%成長をはかるため徹底的に他人資本を導入し、自己資本は組合員拠出資本(組合債)

中心とする損益ゼロ主義ですべての財源を新店開店に注入。

              C 店舗政策……地域一番の大型店舗をつくり規模の利益を追求。労働生産性第一主義。

           D 人事・経営組織政策……高速成長を果たすため素人集団で運営することになるから、経営組織は専務のワンマン組織

を基本とし、本部中心、マーチャンダイザー先行。会議を否定し、即断即決の行動中心の運営に徹し、全職員に高

速成長への求心的団結を要求する。

         (2)「地域政策」をめぐる1968年の対決

            日生協第18回総会(6月)での「地域政策」の提起

             @ 「首都圏をはじめとする地域政策づくり」

                 A 地域市民生協づくり……函館・盛岡・宮城・鹿児島などで20近い生協が設立され、いわき・由利など多くの職域生協が

地域生協に生まれ変わる。

               B これにもとづく活発な模索……ペガサス理論の導入も。

             生協労連結成大会(9月8日)の反撃      6つの初心

           @ すべての生協労働者とともに    A 商業・医療・福祉・協同組合労働者とともに

               B たたかう全ての労働組合とともに   C たたかう政党・民主団体とともに

                D 生協組合員とともに               E 民主的・大衆的な組織を

         (3)「急速成長」路線と「地域政策」の問題点

              消費者の立場の喪失

               「急速成長第一主義」への歪み

               「落下傘方式」という「思い上がり」

       2、地域市民生協の成熟時代

         (1)急速成長路線の破綻

            「急速成長」した借入金

            資金不足におちいった札幌市民生協

             各地で破綻が表面化

         (2)日生協「福島総会」(70年5月28〜30日)の原則復帰

            福島で開催された日生協第20回総会は以下のことを明確にした。

            @ 東京生協「改革」方針を確立

             A 福島結語(中林副会長の結語)を採択……「組合員に依拠し、民主的運営を貫徹すること」「主体的力量を基礎に商品政

策、店舗政策を検討することが大切であり、この基調を軽視して経営戦略的 観点で…急速成長を考えた場合には、か

えって本末を転倒して、生協運動を危機に陥れる」

         (3)日生協第21回総会(神戸、1971年5月)で中林氏が会長に就任

             @ 福島結語の具体化……「生協の強化・拡大ということを事業規模の拡大、チェーン化、合併という単純な経営面」の問題

として理解するのではなく、「その評価の基準を『出店・拡大』などからさらに……消費者運動強化の観点にまでひろ

げてゆくことが必要」と確認。

        A 札幌の文書報告……「自己資本の過小の中での過大な投資とそれによる財務構造の悪化は急速成長政策の本質であり」

「破綻の前に路線を自律的に変更することは非常に困難」であったこと、「急速成長路線は、みずから生み出した組織

はもとより、日本の生協運動の長い歴史が残してきた運動の成果を…押し流してしまいかねない危険を……内包」。

     (4)生協の民主化と事業の再建

        白河生協の民主化闘争(71年)

        福島「全日営業」反対闘争(71年3月〜10月)

        東京生協の「改革」(72年)

        岡山生協の再建闘争(74年〜)

 

3、総括のあいまいさが残したもの

 いま、釧路市民生協に限らず全国の生協は、長引く不況と、そのもとでの消費購買力の低迷、競合の激化などに遭遇し、多かれ少なかれ事業上の困難におちいっています。

 この困難にどう対処するのかを考えるには、これらの困難の背景に、以上述べてきたような「買い出し組合」時代の3大弱点(物取り主義、団体主義、3無主義)と「地域勤労者生協」時代の3大弱点(民主的でない組織関係・事業関係・労使関係)、「地域市民生協」時代(「レジメ」参照)の3つの問題点(立場の喪失、成長第一主義、落下傘方式などの思い上がり)の残存がないかどうかを、しっかりと見極めることが重要だと思います。

 私は、釧路はもとより少なくない生協が、これらの弱点を複合的に、根強く残存させていることを指摘したいと思います。その例をあげながら、いま私たちは何をしなければならないかを探ってみたいと思うのですが、時間の制約がありますので、以下の「レジメ」に目を通していただき、最後にコメントを試みることにします。

 

    1、新しい「合理化」、小手先の「危機対策」

     (1)市場原理への巻き込まれ

     (2)競合への巻き込まれ(営業日・営業時間延長競争)

     (3)これに照応する雇用形態の拡大(パートの大量導入)

    2、急速成長路線の滞留と経営危機の繰り返し

     (1)秋田労組生協の破綻と解散1971年) 

       69年     第15回総代会で9,827万円の赤字が報告され、理事会が退陣。79年からの「再建5カ年計画」がつくられた。「計

画」は横手支店閉鎖など供給部門の打切により70余人の労働者を20人たらずにし、ホテル(宿泊・会議室)運

営を中心に債権者の経営管理のもとに置くという内容。

       71年5月15日 読売新聞が、1億7,440万円の累積赤字を報道。赤字の原因として、土地事業着手、過剰借入金、物資供給部

門の不振などを指摘。

         73年3月15日 生協解散総会

     (2)山口中央生協での「100億生協計画」のつまづき1976年) 

       76年5月   第14回総代会で「4つの基本方針」採択。その一つに「100億規模生協めざし労働条件の向上をめざす」をかか

げ、5月に8号店(130坪)、6月に9号店(400坪)、7月に10号店(100坪)の出店に踏み切った。

         8月   「5カ年計画」を決定。78年度までに拠点店舗を配置し100億へ(76年度の倍)、80年度までに周辺小型店を配置

し組合員を9万人に、などの内容。

         12月   8千万円の赤字を計上(年度末2億5千万円の資金不足予想)。

       77年1月   「100億生協計画」が初年度で破綻傾向に。「正規」職員195人、パート135人、新規採用23人。事業高48億円、

               人件費3.7億円、物件費4.9億円、支払利息1億3,300万円

     (3)道中央生協(空知)での辛酸1978年) 

       78年2月   経営破綻。組合員4万2千人、「正規」297人、パート405人。出資金7.5億円、事業高118.5億円(全国5位)、

生協債14.6億円、長期借入20億円、人件費10.3億円、物件費11.6億円

              粉飾決算のため、単年度6.5億円、累積17.7億円の赤字。資金状況は、支払利息3億2千万円、未収金回収不能

1億1千万円、退職引当繰入不足額1,100万円以下となっており、自主再建も不可能な状況となった。破綻

の原因について理事会は「過大投資と情勢、経営執行上の甘さ」「理事会内部の民主的運営の不徹底(真実を

語らない常勤役員会、経営責任に知識と理解の不足した婦人理事、事なかれ主義に流れた学識経験者)」な

どがあったと総括。

             5月13日 総代会は自主再建を断念し、市民生協など道内5単協の合併による救済方向を確認し事実上倒産。人員削減が

提案される。本部、セ110人を42人(68人削減)、パ53人を19人(同34人)に。店舗、セ187人を180人(7人削減)、

353人を341人(同12人)に。パの就労時間、就労6H×27日を4H×22日に。

         5月14日 希望退職募集開始。第1次(18日までに)20人が希望。

         5月20日 他生協への移籍と退職勧奨。三多摩へ37人、埼玉へ3人、釧路へ10人、札幌へ5人。残留職員の労働条件は、賃金

以外は市民生協の就業規則を適用し、賃金は「定昇」2%、一時金については 3.8ヶ月(前年5.8ヶ月)、退職金

はタナ上げ。

         6月21日 営業権を市民生協に移管。組合員は出資金を凍結し、市民生協に加入手続き。

               <資金貸付>日生協10億、道連1.5億、札幌5億、他生協4.5億、計21億円。<欠損補填>該当役員1.5億

円、取引先3.5億円、全国・全道の生協5億円(金利負担として)、統合市民生協5億円(5年償却)

            ……道生協連は「経営破綻の原因」として、@大衆の財産を預かり運用していく上での経営に対する厳しい実践

態度と社会的責任(経営モラル)の欠如、A情勢認識に対する洞察力の弱さと政策上のミスリード(その

結果、多大な投資で損益構造を悪化させ、減量経営への移行に立ち後れ、体質改善の取り組みに弱さを路

程した)、B内部運営に対するリーダーシップ(経営執行体制、管理体制)の不足、C政策を決定する理

事会の民主的運営の不徹底、を指摘。

            ……日生協は「この問題の性格と発生の原因」として、@専務ワンマン体制(トップの能力に対する過信)、A形

式上の組織運営への錯覚(生協における組織運営として錯覚)、B生協としての「原則的運営」の欠如(経

営の公開と正しい決算処理などの欠如)を指摘。加えて、70〜71年の「福島総会結語、市民生協の新路線

策定に当たって」などが「道内の市民生協グループ全体の総括でなければならなかった」のに、それが「7

年たった今、全く同じような形で繰り返されているということは、総括がこの生協のその後の運営の中に

何ら生かされてこなかったということ」であると指摘。「生協運営上の弱さを自ら分析し組合員とともに

着実な改善努力をせず、施設増強、事業拡大で解消する傾向が、原則復帰を妨げている」などを指摘し、

「組合員中心の生協路線の確立」が必要であると強調。

                 ……労組は、労連・地連のなかまとともに「空知から生協の灯を消すな」「失業者を出すな」という現実的なた

たかいを繰り広げたが、結局、セ・パ各300人のなかまに、希望退職、他生協移籍などをもたらし、大きな

後退を余儀なくされた。

     (4)山梨中央市民生協での経験1980年)

       80年8月   資金繰り破綻。組合員3,600人、出資金1,728万円。80年度事業高は 5億6千万円だが、仕入計上漏(簿外損失)

4千万円など、初歩的なミスも重なり、累積赤字が7,300万円に。

       81年2月   労組は人員を1人も削減しないことを条件に、残業代、食事手当、職制者の休日出勤手当6日分、一時金年間

1.5ヶ月分などのカットを申し出た。また、労組員個々の増資・債権購入に協力する。

        81年6月   第8回総代会。本拠地「飯田店」を山梨勤医協に譲渡。日生協への未払代金3千万円を3年間の延べ払いにする。

職員を4人削減。本部の千塚移転と千塚店の強化。共同購入など計画経営の現実化。経営陣の大幅交代。

     (5)消滅した鳥取県西部生協1984年) 

       79年12月   19億円の投資で本店(売場4,000平米)改築

       81年     事業高77億9千万円に至る

       82年1月   灘神戸から派遣の榎本常務を解任

       83年5月   桑村組合長退任(総代会)、10月 安藤常務(前専務)辞任

       84年1月16日 4,700万円の不渡り発生。負債金額44億7,124万円(債権者数 5,400人)、内、組合債10億8千万円(5,000人、

最高7,500万円)、組合員 35,800人、出資金3億5千万円、事業高69億円。職員183人、納入業者280人

              ……緊急理事会で和議と現状保全の仮処分を申請。

         90年3月   事業停止。以降、残務整理中。

     (6)練馬生協1994年) 

       94年3月   出資金1億3,774万円、総事業高30億3,680万円、組合員1万2千人、職員セ58人、パ180人

         5月19日 経営赤字が深刻化し総代会を延期。92年、93年にそれぞれ約3億円の赤字(累積6億円)となった。その原因とし

て理事会は、 高松店の過大投資(8億円)、専務のワンマン経営と現実無視、 理事会の民主運営と相互批

判の欠如、などをあげた。

         6月30日 再建総代会。赤字店閉鎖、共同購入強化、人員削減、などの再建方針を決める。

     (7)コープあおもり1995年)

       94年現在   出資金11億円、総事業高109億円、組合員7万人、職員セ205人、パ311人

       94年12月   理事会が、「合併初年(93)度は2億3千万円の赤字決算、94年度上期も1億円の赤字となった」「この間、組合員

に対する期中利用割戻率の引下げ、役員報酬の一部返上、職員・パートの一時金削減などを含む経費削減を

行なったが、それでもなお1億2,200万円以上の赤字(93年度の繰り越し欠損1億7,800万円と合わせ3億円

の累積赤字)が予想される」として、「経営改善3カ年計画」の検討を開始。赤字の原因として、 青森・弘前

店の供給高とGPの低下、 新店(るいけ店)の供給不振、 共同購入は伸びているが規模が小さい、 経費

(人件費・物件費ともに高く、労働分配率が93年度55.4%、94年度52.3%)が高い、などがあげられた。

         95年4月   2店閉鎖

     (8)その他

      @ 下馬生協(1994年) 92年  首都圏コープ事業連合に加盟

                  94年  出資金2億円、総事業高20億円、組合員2万5千人、職員セ14人、パ50人、欠損金7.7億円

      A 岐阜消費(1996年) 71年4月1日 創立

                  94年3月   出資金7,759万円、総事業高29億円、組合員2万人、職員セ52人、パ69人

    3、これらの経験からの教訓

     (1)生協の経営危機は「三無主義」と「経営偏重主義」によってもたらされる

        生協はほんらい倒産とは無縁  そもそも生協は、経済のしくみに抵抗するもの。そのしくみから一定の距離を保ってい

れば倒産とは無縁。わが国には230万の法人企業があるが、その半分以上の120万社は赤字。倒産するのはその1%(1

万4千社)。……一般の企業ですら、信用を失わない限り倒産はしないわけだ。

        生協組合員の団結、地域からの期待と信頼に包まれてこそ成立する  生協は、みんなで力を合わせて情勢に対処しよう

とするものだから、資本主義企業とは次元のちがう事業・運動。したがって、生協をつぶすかつぶさないかを決めるのは、

力を合わせているみんな。それが倒産の危機に直面するのは本来のあり方から逸脱するから。

        本来のあり方こそ、「3つの民主制」を追求すること。  暮らしと平和を守るためという目的にそって、@民主的な組織運

営、A民主的な事業展開、B民主的な労働編成。これらを通して、たえず運動と事業の統一をつくりだすこと。

     (2)総括のあいまいさが、新しい矛盾を生む    喉元過ぎれば熱さを忘れる……。福島結語さえも否定する動きがある。

        当座しのぎの危機対策だけでは矛盾が解決しない……鳥取西部、道中央、いずれも同様。

         バブル期の日生協と各生協の経営の動きにも……

         バブル崩壊後の動きにも……

      (3)では、どんな構えが必要なのか?       情勢のとらえ方、総括のし方、方針のたて方の基本に、以下の立場をつらぬこう。

             要求実現の立場(上からの一方的な立場でなく民主的に)

             全面的な視野(客観的条件とともに主体的条件も)、

            変革する立場(受け身でなく能動的に)

         (4)経営破綻のもとで重要なことは    「生協労働者の2つの使命」を追求すること

             破綻の原因を生協組合員と生協労働者の立場から究明する

            負債処理だけでなく真の生協運動の再生を追求する

             原点からの抜本的な政策と実行の体制をつくりあげる

 

 この「レジメ」を通して言いたいことをコメントして、お話をしめくくることにします。

 釧路市民生協の破綻のなかで、釧路のなかまは本当に苦しい思いをして来たと思います。「生協組合員がこんなに傷つき、マスコミがこんなに騒いでいる時に、生協労働者の要求や権利について主張するのはまずいのではないか」、いま生協で働く労働者の権利を守れなどという要求を言ったら、マスコミはどう言うだろう、生協組合員はどう思うだろう。そんな自問自答を繰り返して、ともすると自分自身の切実な願い、自分の展望がどうなのかという論議を後回しにしなければならなかったのではないかと思います。

1)切実な要求を基本に据えよう   大企業本位の政治・経済との対決点を見落とさず

 しかしやはり、自らの切実な要求と展望を位置づけないとたたかいは、本当のパワーをつくりだせないと私は思います。そこのところをぜひとも強調しておきたい。変革する立場から、受け身ではなくて能動的な姿勢で、要求とたたかいを位置づけなければなりません。「いま情勢が激動し、このまま行ったら生協事業はつぶれる。だから、つぶれないために、競合相手のやっている手法でなんとかしよう」と言って、「市場競争」にだけ対応するというのは受け身の構えでしかありません。

 そもそも「市場競争」は、消費者の暮らしを資本が支配するために行われています。それは、消費者の暮らしを破壊するために行われているとさえ言えます。それらを通して資本が利潤を実現し、莫大な利潤を蓄積しているわけです。

 だとしたら、それに対してどういうなかまの力を結集し、それをどう発揮するのかということが重要です。この問題を抜きにして「経営力」だけでこれに対抗するのでは、それは受け身の構えにしかならないし、問題を真に解決することはできないと思います。やはり切実な「要求を実現する」方向へ、大資本の支配と対決し、情勢を広く深く正確にとらえてこれを「変革していく」立場で、能動的にたたかうということが大事だと思います。

(2)破綻の原因を徹底糾明しよう      運動の原点の逸脱こそ真犯人

 釧路のように経営が破綻してしまった状況のもとでのたたかいは、何よりも、その破綻の原因を生協組合員と生協労働者の立場から徹底して究明することが大事です。生協組合員、生協労働者、取引業者の生協に対する信用は地に落ちたのです。原因と責任があいまいなままでは、だれも安心して再結集できません。

 釧路の総代会議案書に目を通しましたが、その「総括」と称するものは、総括としては実に不十分だと思います。……いままで、一部の常勤部が勝手なことをしてきた。理事会としてはそれに気がつかなかった。しかたがなかった。……これは「言い訳」でしかないと思うのです。もちろん「一部の常勤部」の悪業を明かにし、その責任を追求することは必要ですが、それよりも重要なことがあります。

 理事会はなぜ「一部の常勤部」の粉飾決算に対してチェック機能を持てなかったのか? また生協組合員と生協労働者がその事態に気がつくことができなかったのはなぜか? なぜそこに踏み込んだ論議や批判が行なえなかったのか? つまり、生協組合員の要求にもとづく団結や運営「参加」、それにもとづく事業と運動の民主的・大衆的な推進などが破壊されてきた、……そこを洗いざらい明らかにして論議しなければならないと思います。そこまで掘り下げないと「地に落ちた信頼関係」は決して回復するものではありません。

 ときには深刻な自己批判も必要です。釧路の場合、生協労働者は犠牲者ですから、このような犠牲を被った原因について、あらゆる角度からメスを入れることが重要だと思います。このことは、釧路の皆さんに求めるというよりも、生協労連としても胸の底にしっかりと刻みこまなければならないことだと思います。全国各地の生協でも、ただちにこのような深い総括をしなければならないと思います。

(3)負債の金額に負けないように      真の生協「再建策」の構築を

 釧路の負債は67億円。こんなに大きい負債は生協では見たことがありません。だから深刻なわけで、そこにしか目が行かないという状況におちいりがちだと思います。

 しかし、「再建策」と「負債処理」とを混同すべきではありません。

 もともと「負債処理」は、企業競争上のかけひきを伴うものです。先ほども言ったように、資本主義企業は半分以上が赤字を出しながら回って行きます。経済というのはそういうものです。経済社会における企業活動は、一定の年限をかけながら、その負債を解決していくことも可能なのです。関係者のそういう合意形成をいかにつくるかが大事だけれども、合意次第ではそういうことが可能なのです。「負債処理」については、思い切ってこのような視野からとらえて、これだけに目を奪われないようにしなければなりません。

 生協を再建するうえでの、より基本的な問題は、いかに民主的な「再建策」を確立することができるかにあるのです。生協組合員と生協労働者、取引業者の切実な要求にもとづく運動と事業を再建するという、生協運動の原点を踏まえた「再建策」がなければ、再建の展望は決して出てこないのですから。

(4)同じ誤りを犯さない保障を          歴史に学び正確な総括を

 そのような「再建策」を確立するうえで、「二度と同じ誤りを犯さない」という保障をつくりだすことが大切だと思います。この点があいまいでは、関係者は危なくて生協に近づけないからです。地域住民、世のため人のために行なうはずの生協運動が、生協組合員と生協労働者に莫大な被害をもたらすなどもってのほかなのですから、そのような「有害な生協運動」を二度としない。具体的な生協運動の再生・再建は、このような「信頼回復」という課題を避けて通れないわけです。

 では、どうすれば「二度と同じ誤りを犯さない保障」をつくることができるのか。

 その第一歩は「正確な総括をすること」です。先の「レジメ」にしめしたように、戦後の生協運動の歴史は、その時代時代の歴史的な制約を受けて、重大な弱点を抱えた生協運動が、その弱点を一歩一歩克服しながら、新しい情勢に対応する組織と運動の形態を生み出してきた歴史でした。同時にその歴史は、とりわけ「地域市民生協」の時代に「高速成長路線」の迷路に入り込んだわが国の生協運動が、その誤りを深刻に総括した日生協「福島総会結語」によって一旦立ち直ったものの、繰り返しその総括を曖昧にし、繰り返し同じ誤りを犯してきた歴史でもあったと思います。

 この度の釧路市民生協の破綻も、70年の札幌市民生協の破綻、73年の自らの破綻、78年の空知市民生協の破綻、そして93年の再度の破綻という「前史」を踏まえた破綻であることを、しっかり見据えなければなりません。もし釧路市民生協が、これらの失策の総括を正確に行なっていたら、とりわけ「日協同盟の初心」「日本生協連の創立宣言」「福島総会結語」などを真剣に学び、これらを踏まえて運動を実践していたら、こんな事態を繰り返さずに済んだのではないか? 

 生協労連は、これらの歴史から学んだことを、『生協における労働組合』というテキストにまとめています。その中から、いくつかの部分を「参考資料」として添えますので参考にして下さい(巻末)。また、私が書いた『協同組合運動の意義と役割』という本にもぜひ目を通して下さい(これらはいずれも「学習の友社」から発行されています)。

(5)やっぱり自力更正を        生協運動の原点をあいまいにしない

 「生協労働者の2つの使命」を念頭に置いて、どんな生協をつくるのか、犯してしまった誤りをどう乗り越えるのか、について原点から考える必要があります。抜本的な政策とそれを実行する力と体制をつくり上げることです。その政策と体制から、誤りを犯した責任者を外すか外さないかという問題も重要ですが、そのような狭い視野からだけではなく、過去のしがらみをきっぱりと断ち切ったかたちでの新たな体制と方向を、やはり思い切ってつくっていくことが必要だと思います。

 そのために何が必要か。釧路のなかまは、やはり釧路の地域にこそ根を張るべきだと思います。釧路に生きるなかまとともに前進すべきだと思います。今日、釧労連のなかまがこういうかたちで激励の場と機会をつくってくださったわけですけれども、そういうなかまたちと力をあわせて、地域に民主主義を育て上げていくこと、これに貢献する生協職場をつくり出すことが大事だと思います。

 ともすると、生協は全国連帯ではないか、全国に生協はあるんだから、こんな事態になったら、日生協が金を出せばいい。あるいは隣に大きな生協があるのだから、そこが援助の手をさしのべればいいんだという考え方がマスコミにも見られるし、私たちもついそう思ってしまいがちです。たしかに「生協間の協同・連帯」は大切な課題ですが、連帯の名で、他生協の財産を当てにするのは、正しくないと思います。生協の事業と運動はほんらい、あらんかぎりの成果を組合員と地域に返していくべきものだからです。ほんらい生協には、他生協にそそぎ込むような財産があるわけはないのです。そういう意味からすれば、よその地域に財政的に期待をするような「再建策」では、地域に本当に生協運動を再生させることにはならないのではないかと考えます。

(6)おわりに

 今日は、私の個人的な思いをかなり強く含めてお話をしてしまいました。皆さんがこの間なめさせられたつらい毎日が、意味ある日々となるように。全国のなかまに明るい笑顔で語っていける教訓となるように。ぜひとも一緒に力をつくしたいと思っています。最後までご奮闘くださるように、また地域のなかまが最後までこれを支えてくださるように、こころから期待しお願いしたいと思います。

 

  参考資料『生協における労働組合』抜粋

 

経営分析の考えかたとすすめかたP.54〜57)

(1)労働者側からの経営分析の必要性

 生協労連は、これまでの不振生協対策活動からの教訓として、以下の「3つの苦い体験と3つの警告」をまとめています。

  3つの苦い体験 @トップの独走や役職員請負などの非民主的な運営は生協運動の命取りになる。A過大投資や規模拡大主義などの経営偏重とずさん(杜撰)な経営は生協運動に重大な損失をあたえる。Bこれらのツケは全てそこで働く生協労働者にまわってくる。

  3つの警告 @経営対策が一面的に先行すると生協組合員の要求が置き去りにされる。A他人資本の過度な導入は金融・商社資本の支配介入を強め生協組合員を運営からはじき出す。B安易な統合・合併は赤字・経営難の規模を拡大し、まとめてつぶれる危険をも大きくする。

(2)経営分析は総合的な視野で

 労働組合の経営分析は、労働者の切実な要求にもとづいて、労働者の生活と権利の向上を目的として行なうものです。それは、経営者(協組理事会も含む)が、ともすると企業競争対策に明け暮れて、単なる「企業生き残り戦略」という狭い視野から行なう経営分析(それは困難を一方的に労働者にしわよせする傾向を根強く持っています)とは抜本的に異なる、総合的で科学的な視野を持つものでなければなりません。…現場での労働者の実感を基礎に、労働者の多様な力を結集して、経営幹部の姿勢と動向についての観察、協組員や取引業者からの要望や情報の収集、日常の経営活動を通じての要求・感想・意見の集約、マスコミ・業界紙の情報収集などを、系統的に蓄積し…後に触れる財務諸表の分析以前に、少なくとも以下の諸点をみんなで分析しましょう。

 1、3つの民主制に関する分析。……人の組織である協同組合は民主運営のなかでこそ真価を発揮します。ですから協同組合が、@組織関係の民主制、A事業関係の民主制、B労使関係の民主制という「協同組合運動の3つの民主制」の確立に向かって前進しようとしているかどうかをチェックし、その確立状況を分析することが重要です。

 2、5つの点検ポイントに関する分析。……理事会の経営戦略・経営計画、投資・資金計画、その他の政策と計画を公開させ、これを、@協同組合員の「参加」を保障する、A労働者の生活と権利を守る、B民主的労使関係を確立する、C協同組合運動の目的に沿う、D経済民主主義を前進させるという5つの視点からチェックしましょう。

 3、協組員と協組労働者の状況の分析。……@協組員数・班組合員数・その活動状況、A協組員一人当たり月利用高・一人当たり出資金、B事業所数・店舗数とその規模・産業でのシェアと役割、C理事会の政策力と指導力、D協同組合労働者数(「正規」労働者・パート労働者)と労働条件・作業環境・福利厚生・ロイヤリティと働きがい・教育状況などを分析しましょう。

(3)財務諸表分析の基本

 これらの総合的な分析を踏まえて、各協同組合・事業の財務諸表(損益計算書と貸借対照表)を最低でも5年分は取りそろえ、以下のような分析に挑戦しましょう。

 1、財務諸表そのものの分析。……損益計算書は、事業の1年間の収益から、かかった費用をさし引き、どれだけの剰余金(利益)または欠損金が出たか、つまり事業の収益性(赤字または黒字の程度)を示す表です。また、貸借対照表は、事業の資金を、どのように調達したか(左側)、どのように使っているか(右側)を対照して、事業の安全性(経費の支払い能力)示す表です。双方の表を結合して分析すると、資本と資産がどの程度効果的に運用されているかを見ることもできます。

 2、比較による分析。……これらの表そのもの、または分析数値について、数年間の推移、予算、同種同規模事業の数値などを比較して見ましょう。推移に大きな変調がある時、予算と決算が大きくズレている時、他の事業との比較で大きな開きがある時は、とくに注意深くその原因と背景を分析しなければなりません。数字にミスや粉飾があるかも知れないし、政策そのものに問題があるかも知れないからです。

 3、実感にもとづく点検。……これらの数字が、現場で働く労働者自身の実感とフィットするかどうかを見ることも重要です。

 

要求・政策・戦術の基本P.77〜79)

(1)要求は原則的に      4つの留意ポイント

 労働組合の要求は、労働者一人ひとりの生活と労働の実態、労働者に対する搾取と攻撃の実態、そのなかからにじみ出てくる切実なねがい、などなどにもとづいて練り上げるものです。…労働組合の要求は、単に「ほしい」という気持ちをつづり合わせたものでもなければ、…要求を「平均化」したものでもありません。協同組合労組の要求づくりにおける「留意ポイント」として以下の4点を追求しましょう。

 @かちとる決意をこめて「団結できる」か? Aかちとれるという「確信と展望がもてる」か? B地域や全国のなかまと「連帯できる」か? C協同組合員の「支持と理解がえられる」か?

(2)政策は科学的に   5つの点検ポイント

 労働組合の政策は、要求をとりまく客観的・主体的条件にもとづいて、要求実現の道すじを明らかにするものです。同じ切実な要求であっても、大企業のもとでの実現の道すじと中小零細企業のもとでのそれはおのずから異なります。…協同組合労組は…協同組合の投資・出店・商品開発から事業連帯・その他の事業展開にいたる政策を詳細に検討することがもとめられています。その際、労組自身の政策はもとより、理事会が提起する政策についても、以下「5つの点検ポイント」を厳格に点検し、労働条件の悪化をもたらす「合理化」や非民主的なすすめ方を防がなければなりません。

 @協同組合員の「参加」を損なわないか?……その政策は、協組員の要求や利益とどのようにかかわっているかを点検しましょう。

 A労働者の生活・労働条件を悪化させないか?……その政策によって、協同組合労働者の生活・労働条件が悪化することはないか。

 B民主的労使関係を損なわないか?……その政策を実施することによって、職場・産業・全国の団結と連帯が破壊されるのでは困ります。

 C消費者利益と協同組合運動の目的にかなうか?……その政策は、地域住民の統一と団結、政治革新の展望を促進するものかどうか。

 D経済民主主義を損なわないか?……その政策は、地元中小商工業者との矛盾を拡大することはないかどうかが重要です。

(3)闘争と戦術は柔軟に 3つの姿勢ポイント

 労働組合の闘争戦術は要求実現のための具体的な手だてです。私たちは常に階級的・大衆的にたたかうことを基本にして、闘争のあらゆる局面で労働者の自覚をたかめ、より広範ななかまと団結することをこころがけなければなりません。このようなとりくみを通して私たちは、必要な場合にはいつでもストライキ権を確立し、幅広い団結の力でたたかうことのできる主体的な力量と客観的な条件をつくりだしておかなければなりません。…しかし同時に私たちは、たたかいをストライキだけに限定したり、戦術規模の大きさだけに固執するのではなく、以下「3つの姿勢ポイント」をつらぬきましょう。

 @多様な戦術と手段をくみ合わせてたたかう……要求の性格や理事会の姿勢、協同組合員の理解の程度等に注意を払い、その時々の客観的条件と主体的力量、たたかいの展望などを十分に判断することです。

 A原則的で弾力的な態度でたたかう……真の敵は何かをたえず明らかにして、これに効果的な打撃を与えるために労組員の団結を強め、協同組合員・地域住民・地域全国の労働者との連帯を広げることです。

 B諸闘争との結合を重視してたたかう……経済闘争と政治闘争との結合、産業別統一闘争や全国全産業的統一闘争との結合を追求することです。