2002年11月9日 「鈴木彰さんを囲む会」でのお礼のあいさつ

 

残したい4つの思い


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鈴木 彰  

1、最初の職場への思い

私の労働者としての生活は1963年春、江戸川沿いの小さな工場の寮の1室で始まりました。高校を出たての3人の旋盤工見習の仲間と寝起きをともにしましたが、驚いたのは、彼らが、半年くらいの間に次つぎと機械に指を食いちぎられ、先輩たちから「これでお前も一人前」「怪我と弁当は自分もち」などと教えられるのを見たことです。学生時代に学んだ「労働者の権利」はどこにあるのだろうかと思ったものです。

その会社は大阪に本社があり、労働組合も総評・全国一般大阪地本に属し、東京支部は地域との接触を絶たれていましたが、春闘ではストライキもやりました。ストの時の労働者がいつもとは異なる「誇り」の表情を見せ、大阪からの一方的なスト終結指令に「いつもこうだ」と腹をたてるのに感動しました。やがて私は一部の若い仲間たちに推され、入社半年で東京支部青年部部長、東京支部書記長に選ばれてしまうのですが、組合の経験も理論の蓄えもない自己流の思いだけでは労使一体の管理体制に歯が立ちませんでした。私は自分の非力さに苛立ち、仲間を信頼することも忘れてあせり、ついに「自爆」しました。大学生協の仲間から誘いがあったのを良いことに、職場を逃げ出してしまったのです。

 2、生協で働くセ・パ労働者への思い

 こうして私が64年の暮れに慶応大学の生協に転職したころ、すでに先輩たちが生協労連結成の事業を手がけていましたが、当初の私の関心事は、以前の職場で月3万円だった賃金が生協で2万円に下がったことよりも、生協の未来をどうするか大事でした。寝食を忘れて未来を語る仲間たちは、みんな同じように垢じみて、髪ボサボサ髭ボウボウでしたが、生協の発展のために命をかけるだという熱い思いに瞳を輝かせていました。しかし程なく私は重大な疑問にぶつかりました。健康を害する仲間、親族会議で「生協を辞めて真っ当な仕事につけ」と迫られて泣く泣く職場を離れる仲間、心を病んで海を見に行ったまま帰らない仲間などが次つぎと現れるからです。生協を守るには、生協労働者が自主的に結集し、自らの暮らしと運動を育て上げるという集団的な努力が欠かせないのではないか? この疑問が私を「生協労組必要論」に駆り立てました。いまでも情勢が厳しくなると、つい事実上の「労働組合無視」が生まれるほどですから、「労組必要論」に平穏な時は片時もありませんでした。ましてや生協の発展が無数の幹部を求め、労組を「いわば卒業」して現場に帰る仲間が次つぎに出てくると、労使関係の到達点と現実の競争原理との間の矛盾を埋めきれないままに、組織的な到達点を離れ、個人の才覚で荒れ狂う流通戦争に切り込む仲間もでてくる。この仲間たちを私は「ルビコン」を渡った仲間と言ってきましたが、現実の競合に剥き身で入っていく彼らもまた大変なわけです。

生協労連は68年に6千人規模で出発し、翌年から専従書記次長となり72年から書記長になった私は「労組無用論」とのたたかいに心血を注ぎました。有能な幹部を生協運動に返せば、その分だけ使用者側が強まり、生協労連はその何倍もの新しい仲間をつくらなければなりません。こうして私はますます現場に帰れなくなり、結局、通算30年間にわたって生協労連で仕事をさせて頂くことになりました。

時には「賽の河原」で小石を積むような空しさにも襲われました。しかし私は、その度に現場で働く仲間たちのところに出かけて行って実感と要求を聞き、新しい力をもらいました。とりわけ、私にとっては折り返し点となった80年代以降に、わが国の労働運動の新しい担い手として登場したパートの仲間たちと触れあうことができたのは重要でした。82年から「生協パート懇」の事務局次長を兼務し、真剣かつ新鮮なまなざしで困難を乗り越えるパートの仲間たちから、私はあらためて労働組合運動の初心をもらいました。先ほど、私が彼女たちの意見を良く聞いたという評価をいただきましたが、正直に言えば、それは彼女たちの気迫が私にそうさせたのです。あの時期にはパート懇の仲間と本当に深い討論ができたと、今も思います。

  3、全国・全産業の仲間への思い

 私が長い年月にわたって生協労連で粘り続けることのできた背景に、今日おいでいただいている各団体の皆さんをはじめ、全国・全産業、民主勢力の皆さんの支えがあったこと忘れることはできません。私は69年の「38単産アピール」に始まり、純中立労組懇や統一労組懇の結成から全労連結成にいたる歴史的事業に直接参加するという幸運に恵まれました。全労連結成後は、初年度の幹事就任を出発点に非常勤幹事を7年、96年に専従副議長として第1回全国討論集会での問題提起を執筆し報告するという栄誉に浴したのを始め、労働委員会民主化、大店法対策、パート・臨時労働者交流集会、中央社保協、法規対策、国民大運動実行委員会、労働者教育協会などの場でも身にあまる大役をいただいてきました。私が労働組合役員として過ごした39年間は、わが国の労働組合運動の、戦後の黎明と激動の時代には間に合わなかったけれども、60年安保闘争から今日にいたる変化と発展の、もっとも面白い時代だったと感謝しています。

  4、生協労働者の「2つの使命」への思い

生協運動が、とりわけ事業面で空前の発展をとげ、自らを守りの姿勢に転じつつあるいま、しかも7万人超える大組織となった生協労連は重大な試練を受けています。とりわけ小泉失政に見られるように、もう行き詰まっていることは明らかだけれど、これをつぶさない限りいっそうめちゃくちゃになる悪政のもとでは、生協運動も生協労連も切実な課題を担っています。今日・明日開催している「21世紀の生協労連」シンポジウムもこれらの課題に関わる挑戦の一つと思いますが、いかなるときも生協労連は、生協現場で働く仲間の切実な要求に足場を置き、日本の生協運動の民主的・大衆的な発展を担い、自らの生活と権利とともに「働きがい生きがい」を守り発展させると言う「2つの使命」を果たす立場をつらぬいていただきたいと、私は心から切望するものです。

自分の未熟さゆえに仲間を裏切った若き日の苦い体験は、たゆまず学ぶこと、休まず仲間をふやすことに私を駆りたてました。それらはまだまだ課題を残していますが、私はすでに現役の年齢を抜け出したし、もう十分に楽しませていただきました。これからの労働者・労働組合をとりまく情勢は確かに厳しいものはあるけれども、これをはね返す展望もまたかつてなく大きく広がっています。いよいよ働きがいのある時代の仕事は、やはり現役の皆さんにゆずらなければならないと思います。

 「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」との悟りをもとに、「草の戸も住み替わる代雛の家」の一句を庵の柱に残して「奥の細道」に旅立った芭蕉にならって、私もまた、百代の過客への思いを胸に、新しい旅に出たいと思います。

今宵こうして「囲む会」を催し、私の門出を見送ってくださった皆さん、スピーチをいただいたことはもとより、折角おいでいただいたのにスピーチの機会を保障されなかった多くの皆さんのことを、私はいつまでも忘れません。皆さんのご健康とご健闘を「草葉の陰」からいのっていますし、私も命あるかぎり皆さんに負けずがんばります。本当にありがとうございました。