パート部会再開10周年を迎えるにあたって

座談会 パート部会の着実な歩み

「パートのあした」を見つめながら
生協労連パート部会:2004年9月3日

 


TOPに戻る
角丸四角形: 〈座談会出席者〉
鈴木 彰   元生協労連書記長
元全労連副議長
布間きみよ  パート部会部会長
杉山美代子  パート部会幹事
志村 佳子  パート部会幹事
八谷真智子  パート部会事務局長
橋本のり子  パート部会副部会長
         (司会)

橋本 今日は、パート部会が2005年の秋で10周年を迎えるということで、パート部会の結成から関わってこられた鈴木さんを囲んで座談会を行います。幹事のみなさんは、幹事会から引き続きご苦労さまです。鈴木さんはお忙しいなかお越しいただきありがとうございます。

 これまでの10年を振り返って、到達点や教訓などお話いただき、今後のパート部会につなげていく課題をみなさんで語っていただきたいと思います。最初に、パートの運動の育ての親でもある鈴木彰さんから、パートの運動の歩みについて話をしていただきます。

鈴木 レジュメを用意してきましたから、これにそって話しをしたいと思います。

生協労連の結成は1968年、6094人でのスタートでした。生協で働く労働者の総数が1万5千人程度だった時代ですが、すでに大学生協ではパート労働者を組織していて、結成当時138人のパート労組員がカウントされていたのですよ。

生協労連は6000人で二人の専従を置いて出発しましたが、二年目(1969年)に私が書記次長として慶応大学生協から生協労連の三人目の専従に入りました。生協は全体としてまだ小さかったし、6000人のうち2000人が大学生協で2500人がこうべ(当時は灘神戸)で、その他は本当に小さな組織の集まりでした。次々と地域生協がつくられていった時代なのですが、労働条件はかなりひどいもので、このままでは働き手がもたないという切実な思いが生協労連の結成の力になりましたね。東北大、宮崎大は早くからパートを組織していましたが、当時はパートの労働条件や働き方を改善する要求よりも、「パート雇用の拡大反対」「『正規』採用に切り替えよ」という要求を中心にしていたのが特徴でした。女性部は生理休暇や産休など、いわば「正規」女性労働者の権利を確立する運動に力を入れていましたね。

 

パートは「やむにやまれず」立ち上がった

 

鈴木 当時はパート労働者の要求に基づく運動という考えはほとんどなかったのです。70年代になると、パート雇用が商業・流通産業の中で急激に広がります。生協も倍々の成長をめざす傾向を強め、その中で労働効率を追求するためにパートを増やす。労働組合はパート労働者の要求を枠外においた運動をやっているから、生協にとっては好都合だった。生協組合員の中からパートを雇って、「あなたたちの仕事は、生協の組合員活動の先頭を担う仕事だ」、「だからあなたたちに支払うのは賃金ではなくて活動費だ」と、かなり劣悪な労働条件で仕事をさせました。そのひどさの一例をあげれば、さっぽろ(当時は道市民生協)では、真冬でも吹きさらしの店頭に設ける特売場にパートを配置する。パートの仲間は死ぬ思いに耐えて仕事をしていたそうです。ところが70年に札幌市民生協が最初の破綻を喫したときには、パート労働者が真っ先にクビを切られました。

このような劣悪・不安定な労働実態にさらされているパート労働者は、切実に労働組合を必要としたのですが、「正規」労働者は、パート導入も含めた「合理化」の嵐の中で、自分たちの身を守ることに追われて、なかなかパートにまで手がまわらない。特筆して起きたいことは、パート労働者の組織化の始まりは、「正規」が面倒をみるというよりも「やむにやまれずパート自身が立ち上がった」ものであったということです。パート自身が動きだしたことと、そうせざるを得ないほどパート雇用が増え、職場環境がひどいことになっていたというのがこの時代だったのです。

さっぽろのなかまは71年2月に「パート連絡協議会」を結成しました。そのお隣の道央市民生協の煤谷さん(パート懇結成時の世話人、後に代表)たちの場合は、「正規」の労働組合に面倒を見てもらえず、地元の一般労働組合にかけこみ、そして一般労組の中にパート労組を結成(69年4月)しました。こうして生協労連本体が、「正規」労働者の労働条件を守るために必死の攻防を重ねていた陰で、パート自身の手でパート労働運動が生まれ前進してきたのですね。

 

 1977年、はじめてのパート交流会

 

 鈴木 1974年の第7回定期大会で生協労連は「生協労働者は労働者階級の一員」として全国の労働者と連帯して「ストライキを含むたたかい」を決意し、それと関連して「労働者」は「正規」労働者だけでないという立場から「パート・アルバイトの組織化」の方針を掲げます。具体的な活動は単組にゆだねられていて、競い合ってパートを組織するということにはなかなか進みませんでしたがね。

 その後「方針の具体化」のため、パートを組織化している所を中心に「第1回パート交流会」を開いたのは3年後の1977年。その後毎年、春闘の時期に交流会を開くようになったんです。

 布間 当時はどんな人たちが集まってきたのですか。煤谷さんとかはいたのですか。

 鈴木 その当時、煤谷さんはまだ出ていませんでしたね。第1回の出席者は、私のメモでは道市民(安田)、茨城大(工藤・柏原・石崎)、かながわ(溝口・早川)、相模原(丸山)、静岡(市川・疋田・野村)、大阪府大(伊藤・寺口・力武)、京都大(中田)、灘神戸(内村・和田・佐藤・小藤)、山口(岡田・藤田)となっています

 当時は、道市民生協労組(現在はコープさっぽろ労組)出身の南向さんが生協労連の委員長でした。私も委員長と手分けしてパートの組織化をオルグしてまわったのですが、その中で「苫小牧にすごいパート労組があって、力のある運動をしている」と聞いたんです。その委員長が煤谷さんで、団体交渉をするのにバスを借りきっておしかけるという元気な活動をしていたのが印象的でした。

 

 

1980年、「早咲きの桜?」パート部会結成

 

鈴木 その内に「パート部会をつくろう」という声が出てきたが、まだまだ生協労連に加入していない組織が大半で、その扱いをどうするかなどの問題がいろいろあったし、私も、組織づくりより運動の実態をつくることを重視すべきだと考えていました。ところが南向委員長が「立ち上げながら考えよう」と言って、慎重論の私を押し切ったんです。80年10月に「パート部会」を結成した(24組織1,632人、オブ3組織2,390)。2年後に私たちは、この結成を「早咲きの桜」と評して「仕切りなおし」をするのですが、この時に部会結成に踏み切ったことは正解だったと思います。組織的な条件は未成熟だったけれど、素朴に切実な要求を踏まえての結成が、その後の運動の発展に道をつけたんですから・・・・。

志村 当時のパート部会の活動は、生協労連に加入していない人たちも含めてやろうとしていたのですね。

鈴木 そう。生協労連に加入していない組織も含めて「生協労連パート部会」とすることには組織的には無理や矛盾がありました。生協労連はまだパートの会費も設定していなくて、財政は「パートのしおり」を作ってこれを買ってもらうことで調達するというかたちでした。こうべにも人数分を買ってもらってね。

しかし、当初から、そのような組織・財政のあり方で済ませるわけにはいかないという考え方があったんです。生協労連に入ってもらえないのであれば、何か別の組織を立ち上げることはできないかという検討もされました。「パート懇」で作成した「パートの輪縮刷版」で、部会結成前後のニュースを見ると、当時の逡巡がよくあらわれているんです。最初のニュースは「パート全国協議会ニュース」となっていますが、三枚目からの部会結成以降のニュースは「パート部会ニュース」でしょう。準備段階では「生協労連全国協議会」という名前を考えていたけれど、それが「パート部会」として結成されたわけです。

そして、パート部会には、すでに生協労連に加盟しているところを会員に、パート独自の労組や協議会はオブザーバ会員に組織して活動をすすめていくことにした。でもどんな活動をしていくのかは、一緒に署名運動をやろう、そしてパンフレットをつくって広げていこうということ以外にはほとんど何も決めずに出発したんです。

 八谷 過去のニュースをみるとはじめは「パート懇」ではなくて、パート協議会やパート部会の名前が出ていて疑問だったのですよ。当時、逡巡していたのですね。パート部会結成当時の署名の要求項目は何だったのですか。

 鈴木 当時の署名は「課税最低限度額(当時の限度額は70万円)の引き上げ署名」で、後に「パートの三重苦署名」に発展します。課税最低限問題はパートで働く人たちの共通した隘路になっていましたから、それを引上げる署名運動がパート労働者の共感を呼ぶことはハッキリしていたのだけれど、それ以外に何をやるのかが見えていなかった。しかし、これを足がかりにしながら、どんな運動をするのか、私もパートのなかまたちと一緒に議論し、ずいぶん学んだものです。

 

1982年、会費20円で「パート懇」結成

 

鈴木 このときのメンバーが中心になって全国生協パート労働者懇談会(=パート懇)の結成に向かっていったのです。当時のニュースを書いていたのは今の桑田委員長ですよ。この頃から桑田さんが書記局の専従になったんです。パート部会はつくったけれど、参加組織の権利と義務の関係を整理する必要があった。そこで「部会」を「懇談会」に切り替えて独自の会費を作ることが検討されたのです。当時のニュースから、当初一人あたり10円程度の分担金を考えて「懇談会」づくりを準備していたのが、「パート懇」結成の時には20円会費に決まったことがわかります。

81年11月「パート懇」結成前のニュース「パートの輪6号」では、「パート部会の運営については生協労連未加盟のなかまをよりいっそう広く結集できるように『パート懇談会』として運営していくことが話し合われました」とあります。そして、翌年の82年の2月24日に「パート懇」が結成されました。準備をしてきたのは、煤谷さん(道央市民)、河本さん(道市民)、橋本さん(福島大)、溝口さん(かながわ)、須藤さん(かわち市民)、佐藤さん(灘神戸)の6人の世話人でした。

これにともなって「パート部会」は生協労連加入組織によるものとして位置づけられ、「パート懇」には「パート部会」が一括加入し、労連未加入のパート組織とともに共同する場として位置づけが整理されたわけです。20円でやれることはたかが知れているけれど、思い切り共同をひろげようということで、相当無理を感じながらも「パート懇」を立ち上げたわけでした。

 

パートのなかまとの論議を通して、

労働運動の「初心」にかえることができた

 

鈴木 私は69年に生協労連の専従になって14年目の頃だったのですが、パートのなかまとの論議から、労働運動の初心にかえる良いきっかけをもらったと感謝しています。そこで得たものを生協労連の場に持ち帰ることで、生協労連もこの論議でずいぶん得をしたんです。

労働運動にすれていない、人間の原点で生きてきた初々しい感覚のなかまたちが集まってきたのです。煤谷さんが総会のあと「『団結がんばろう』をやって!」と言われて、やおら「生協パート懇バンザイ」と音頭をとってみんなをズッコケさせたこともあってね(笑)。そもそもパートのなかまにとっては全国の会議に「集ってくること自体がたたかい」だった。まだ世の中がパートの活動を認めていない時代に、それぞれに工夫をこらして職場と家族の協力を組織して参加してきたんですよ。いまも印象に残っていますが、「ふなばし菜の花会(現在は生協労組ちば)」の宸ウんが「世話人会に出席したかったが、今日受験に出かける子供を送り出してあげたいので参加できません」と電話をかけてきた。パートのなかまは、生身の生活をかかえて活動しているんだと言うことを教えられた思いでした。

 

パートの「三重苦署名」の運動がひろがる

 

鈴木 「早咲き論」もあったが、「ともかくつくろう」という思いと、「つくりたい」という思いで一緒になって突破した。そしてそこから軌道修正、いわば走りながら整えてきた到達点が「パート懇」という組織だったと思います。これは「しなやかさ」がなければとてもできないことだよね。

立ち上げたときは、まだイメージがあいまいでどんな懇談会になるかわからなかった。このパート懇の第2回総会からは、生協労連書記長である私が、パート懇の事務局次長に就任し、生協労連としてその強化発展に本腰を入れる体制をとりました。この総会では「パートの三重苦をなくそう」という運動を打ち上げます。これは「課税最低限度額引上げ」の要求をめぐって、現場のなかまの実感を出し合って論議して引き出すことのできた捉え方です。パート労働者は、企業の賃金制度と国の税制とが絡み合ってつくりだす「三重苦」(課税最低限度額を超えると@本人への課税、A夫への増税、B家族手当が減額されて夫の賃下げ)のもとに置かれている。こういう捉え方にもとづく「パート三重苦をなくす運動」は、職場闘争と制度闘争を結び合わせる契機になったと思います。

84年の第4回総会では、事業所移転だとか統合合併だとかが強行されるなかで、パート問題を雇用問題として広く捉えるという前進をつくりました。この論議をまとめるうえで、こうべのなかまが大きな役割を果たしてくれました。「雇用問題に関する5つの基準」を整理して、職場の権利確立に一歩一歩運動を前進させました。

 

パート懇の「三つの合言葉」のエピソード

 

 鈴木 話が前後しますが、生協労連第15回大会(1982年)の決定で「パート懇」が結成したことに応えて、生協労連に加盟するパートの会費をはじめて設定し「100円」としました。それまでは、登録人数で調整しながらですが、パートも「正規」と同じ会費を払っていたんです。

 そして、同じ大会で「当面パート部会の活動はすべてパート懇の場」を基本にする、という方針を掲げました。そして翌83年の第3回「パート懇」総会(21組織、64人参加)で、私が「三つの合言葉(@なくそうね、一人ぼっちと泣き寝入り、Aつくろうよ、はたらきやすい職場と生協、Bめざそうね、明るいまちと平和なくらし)」を提案したんです。

パート労働者の要求と課題の「一致点は何だろう」とみんなで論議しているなかで、私は、論議の到達点を分かりやすく表現することを考えていました。その時、目に入ったのが「気をつけよう、一人歩きと暗い道」という防犯標語。実はこれをヒントに私は「三つの合言葉」を作ったんです(笑)。それを提案した時は、ヒントがヒントなので少し後ろめたくてね。少し小さな声で読み上げたんですが、みんなが拍手してくれた! 「うん、やっぱりこれでいいんだ」と、私は確信を強めてその後に臨むことができたんです。

この「三つの合言葉」と「6つの申し合わせ事項」という整理が「パート懇」を見え易いものにしたと思います。ところが逆に、パート部会の意味を見えにくいものにしてしまったともいえますね。当時の生協労連の大会議案には必ずパート部会のことをふれて、「パート部会はパート懇に参加して積極的な役割をはたす」と記述していましたが、段々と部会の位置づけが形式的になり、87年には事実上の「凍結」となりました。

 八谷 87年にパート部会の凍結宣言をしたと言われているのですが、そのときの議論はどんなやりとりだったのですか。

 鈴木 凍結宣言をしたというよりは、実践がそういう方向に発展していったんだよねえ。「パート懇」の活動に総力を注いでいるパート部会のなかまたちには、部会の会議を二重に開く余力はまだなかった。だから現実にはパート部会の実体は薄れて行ったのだから。部会と懇談会という二つの組織を同時に運営する条件が生まれるまでは、形式的な記述を重ねても意味がないと考えた私が、87年以降は生協労連方針に書くことをやめてしまったというのが実は真相なんです。いわば消極的な「凍結宣言」ですね。これに対してパートの仲間たちの中に「疑問」は生まれなかったと思います。当時は、全国のパートのなかまは「三つの合言葉」に確信をもって「パート懇」に加入し、活動を通して生協労連にも加入してくるという有機的なつながりがありましたからね。

 

懇談会組織から労働組合への成長

 

 八谷 生協労連のパートの運動がここまで前進してきたことで、外部の研究者の方から、「生協労連の組織の外になぜ「パート懇」を作ったのですか」と質問を受けるのですよ。

 鈴木 「パート懇」をつくった当初は、生協労連がまだ小さな組織で、その組織論もまだ固まっていなかったということがあるのかな。組織が大きくなると、ともすれば組織原理や格式にとらわれて、悪く言えばものごとを官僚主義的・形式論的にとらえる傾向も生まれやすいのだろうが、生協労連はその点、実にしなやかに対応できたと思うんです。パート部会は当面「パート懇」に結集することで運動の目的の多くを達成できる。それが生協労連の組織を強め、パート部会にも発展の条件を与える。こうした所でパート懇直加盟の組織、パート部会、生協労連の「三方合意」が作られていたし、生協労連の書記長が事務局次長を引き受けて支援をしている中では、懇談会が生協労連方針を無視して勝手な運動をするという心配はなかったとも言えますね。

 しかし、パート部会の影が薄くなって、パート懇の組織が4万人、5万人とパワーをもつようになると、どうしても「一人歩き」への衝動が生まれてくるという側面もありますね。生協労連の模索と探求には、積極的な側面と問題が生まれてくる側面との両面があったと思います。研究者の先生方が疑問をもつのは、組織を知っている人としては当然のことですね。しかし、やはり「組織論」ではなくて「運動論」を先行させてきたことによって生協労連は成功したと思います。生協労連があって「パート懇」ができたし、発展期の「パート懇」はみな活き活きと活動していた。生協労連の理解と協力があったから「パート懇」は飛躍できたことはまちがいなく、生協労連の果たした役割は大きかったよね。しかも、部会の凍結という状態までつくって運動してきたからここまで飛躍したんです。このことを忘れてはいけないよね。

布間 「パート懇」の中で活動して、生協労連のパートの仲間はあまり矛盾を感じなかったですね。生協労連と切り離すことなく一体のものとして運動して、活躍する場を広げていったという感じでした。

鈴木 「パート懇」は生協で働くパートであればどんな組織でも加入を受け入れようと活動を広げていったのですが、だんだんと労働組合の組織として成長していくし、「正規」労働者との統一を求める方向に発展して行きました。「かながわ」がひとつのエポックをつくったのは85年で、正規労組とパート労組が統一するということになっていきましたね。労働者の健全なたたかいというのは、労働組合運動への結集に結びついていくのだなという確信をもらいました。

 

80年代を引っ張ったパートの運動

 

橋本  パート懇」結成の経過は、はじめて聞くことばかりですが、なぜ「パート懇」としての活動だったのか、意味があったのですね。このことを残すためにも今回の座談会は有意義ですね。

 鈴木  「パート懇」が動き出して軌道にのっていったころに、世の中の労働組合運動は再編攻撃のもとで低迷期にはいっていった。労働者の切実な要求にもとづく素朴な運動に対して股裂きをかけ、統一労組懇にいくのか労働四団体側にいくのか、その先では連合なのか全労連なのかというところにずうっと引き継がれてきてね。この影響を生協労連も受けていたわけですが、生協労連が何より大事にしたことが「一致点で組織をつくる」ということだったこと、それを生協労連がパートのなかまとの共同の中から学んだということを、ぜひ引き継いでほしいですね。

 八谷 パートがみずから立ち上がったというのは、かながわ生協パート労組の結成(80年)でもそうでしたね。かながわのパート労組結成前は、パート懇で活動をしてきましたが、「正規」の労働組合に入れてほしいと申し出たときに、入れてくれなかった。そこでその当時の神奈川県統一労組懇に、労働組合に入りたいと相談に行ったのですね。統一労組懇の役員から、「外の労働組合に組織されていいのか」と、「正規」労組は注意されたということを聞いています。

 しかし、「援助はするが自分たちで」と「正規」労組に加入させるのではなく、パート労組として立ち上がったわけです。パート懇時代には、「一時金がほしい」とストライキをおこしかけたということも聞いています。

 鈴木 そういう統一労組懇の時代に「正規」労組は触発されざるを得なかったという現象が特徴としてあったし、パートのなかまが80年代の運動を引っ張ったと思います。

 パートのなかまは「失うものは何もない」「言いたいことは何でも言う」「切るなら切ってもいいわよ」と潔さがあったね。それは、今も大事なことだけれど、いまでは勝ち取ってきたものもずいぶんあるよね。世間のパート労働者の水準から見れば少しはマシになっている。「正規」との差別はまだまだ克服されていないのに、「失うもの」ができてきたよね。

 八谷 今は、やっと勝ち取ってきたものを、地域水準により失わされつつありますよね。

 

パートという「攻めの部隊」を受け入れた

 

 鈴木 労働運動というのは、「失うものは何もない」という潔くも新鮮ななかまたちを迎え入れているかぎり、切実な要求とたたかいが絶えることなく、ともすれば「保身」に走りがちななかまたちに「思えば俺も到達点で甘んじていたな」という反省をかきたてるんだね。「正規」労働者の運動が生協労連をつくって、10数年たってようやく軌道に乗って守りに入ろうとしていた時代に、パートという「攻めの部隊」を受け入れるか受け入れないかに追い込まれた。それは守りを中心にやっていた「報い」でもあったと思う。職場にパート雇用がどんどん広がっていくのに対して歯止めをかけることができなかったんだからね。生協労働者だけがたたかえなかったわけではなく、世の中の流れがそうだったということでもあるのだけれど、いずれにしてもそういうことが進んでいて、パート労働者が職場の多数派になっていてしかも未組織であるという状況にぶつかった。胸は痛むのだけれど、自分も追い立てられている。新しい雇用形態がはいってくればくるほど、古い雇用形態は脅かされる。だから「正規」労働者のたたかいも守りに入って、パートの面倒まで見れない。それを「時期尚早」と言い逃れていたんだね。

 相当早い時期からパートの組織化の必要性は論議(74年の大会決定で打ち出す)されていながら、全体のものになりきっていなかった。80年代にそのツケが回ってきたとき、生協労連はパートを組織化する方向で受け入れた。その潔さが飛躍を生んだわけですが、他の労働組合は残念ながらその時点で踏み切らなかった。

 

パートの自立した運動がつくられたのは

 

 布間 「パートによるパートのためのパートの運動」として発展してきたのですが、当時、パートの自立した運動をどのようにしてつくろうとしていたのですか。

 鈴木 パートの自立した運動を意識してつくってきたというより、「要求にもとづく団結」という労働組合の原点にこだわり、生協運動に結集する組合員の真摯な活動から学び、よその組織の歪んだ姿から反面教師的に学んできたということかな。例えば大手スーパーでも同じ時期にパートの組織化をすすめていくのだが、恵まれた一部のパート層だけを組織して、本当に困難にさらされている層を無視していることだとか、パートを労働組合に入れるのではなくて連絡協議会の枠の中だけにとどめて、労組の支配から自立させないということなど現実にあった。また、「パート懇」の仲間の中には京都パート労組のように全国一般に加盟しているところもあり、京都の三浦さんからは「生協労連は企業内主義ではないか」と絶えず批判と疑問を提出されるなど、こうしたことがエネルギーになって、生協労連が良くも悪くも「パート懇」の自主的な活動を支持する方向がつくられた。パート労働者を「支配の対象」にしてはいけないのだということを掴んできたんだね。世話人のなかまの新鮮で真摯な活動姿勢、決して物事から逃げないし、ゆがめない態度から学びながら運動をつくってきたんだなあとつくづく感じる。

 八谷 「パートがパートの運動を」と自らが立ち上がることに、共同を発展させていくことだと確信を持ったのですね。

 

「生活の香り」を労働組合運動に

もちこんでくれたパートの仲間たち

 

 鈴木 職場でのパート労働者の組織づくりの経過は、最初は「正規」労組批判から始まるのが常だった。「正規」労組はたよりにならない、むしろ「敵だ」ということから立ち上がってくるわけだね。しかし、「正規」への不満や不信感を詳しく聞いて掘り下げてみると、それは「正規」への「いつくしみ」ではないかと思えた。自分より人生経験も少ない店長から「明日からこなくてよい」などと言われるわけだよね。言ってよいことと悪いことの区別もつかない幼さによって、いたく傷つけられながら、「その幼い店長を『敵』と見るのではなくて、人の道を教えてあげる必要があるんじゃないか」「それが私たちの『包容力』じゃないの」という論議を深めていく。「正規」労働者に反発してつくった独自の組織が次第に「正規」労働者を囲い込んでいくというか、抱きしめていくという場面があっちでもこっちでも生まれる。これらを目の当たりに見て私は、組織の奪い合いとは違った、いわば「人間の原点を持ち続けている」「人間の組織」という感じを強く受けました。

私は「正規」の労組を「働き蜂組合」、パートの労組を「生活者組合」と言ったことがある。「働き蜂組合」には、滅私奉公を受け入れてしまうという弱点があって、生身の人間の要求を後回しにするようなことがある。しかし、「正規」労働者は生協業務の情報がよく掴めるポジションに置かれていて、生協のあり方を検討するそれなりの条件を持っている。パート労働者はそういう条件から外されているけれど、生協の組合員も含めて、人間や家族が何を求めているのかを何よりわかっていて、人間同士がどういうことで信頼関係をつくらなければならないかをわきまえている。パート労働者がつくっている組織は「『生活の香り』を労働運動に持ち込んできてくれた」と言えます。

世の中は「男は仕事」と教え込み、子どものことは「かみさん」の役目だと押し付ける。こんな世の中が長く続いてきたので、男たちは「働き蜂組合」として編成されてきた。このような力関係の中に、それは間違いだ、「生活をかかえた生身の労働者が結集する場所が労働組合だ」と言うことを思い出させたのが、立ち上がったパート労働者だった。私は、生協の外の労働運動の人にもずいぶんこのことを吹聴したものです。

 

生協という職場だったから、

発展した優位性もみておく必要がある

 

 布間 そのように「パート懇」が発展してこられたのは、「生協で働くパートだったから」という条件があったからではないですか。

 鈴木 確かに、生協という職場における優位性をみておかないと、よその産業はなぜパートを組織しなかったのかという批判や不信感だけに走りがちになるよね。

 橋本 生協でのパートの組織化について、経営の側の動きはどうだったのでしょう。民間とは違う条件があったのでしょうか。

 鈴木 当初、生協側は決して協力的ではなかったなあ。何しろ効率向上がパート採用の主な動機だったからね。でも73年に日生協と生協労連が協力して役職員共済会をつくり、これを基盤に厚生年金基金や健保組合がつくられ、いわば全国縦断の生協役職員福祉制度が完備されて行くなかで、生協労連は生協の福祉担当者会議の場に絶えず参加していくようになった。そのうえ「パート懇」の運動がすすんで組織人数も大きく広がった。他方、生協経営陣の側にも、増えたパート労働者を「戦力化」するために、パートの福祉をどうするかという問題意識が生まれてきた。こうして私たちの運動の積み上げと、役職員共済会の到達点がしっかりと噛み合った。役職員共済に「パート共済」を設けても採算がとれるし、労使双方の合意もつくれるという条件が生まれたわけだね。

生協でパート労働運動が発展できたその他の条件としては、労働集約型の第三次産業で、パートを多く雇う流通産業の分野だったということが挙げられると思います。人がまとまって働いていると団結する条件ができてくる。

 八谷 もうひとつは、パートが自ら立ち上がったのは、生協運動に参加した女性がパートとして参入してきたという特殊性があったと思われるのですが。鈴木さんはどう思われますか。

 鈴木 そうだね。だいたい最初に立ち上がったパートの指導者は、生協運動の活動家・指導者層だったという事実が確かにある。

 橋本 そのことはよく言われますね。他の職場で働いているパートと比較すると、生活の部分でも意識の高い層だということをね。

 鈴木 だから経営の側は「パート懇」があってもよかった。むしろ、それを利用しようとしていたよね。「『正規』職員は雇われ人だけれど、あなたたちは(生協の)組合員なんだよ」「だから『正規』労働者のように対決型の労働運動をやってはいけない」と、「正規」労働者には通用しにくくなった「専従者論」でパートを絡めとろうとするケースが多くみられた。

 杉山 それが経営の側にパートの組織化を許してきた理由としてあったのですね。振り返ってみると事実そうだったのかもしれないと思うところがありますね。

 

パート部会再開のきっかけをつくった

広島大会の熱い議論

 

 橋本 そろそろパート部会の再開のところに話を進めていきたいのですが。

 八谷 パート部会の再開のきっかけをつくった広島大会(1990年の第23回大会)のことは、私は参加していなかったのでわからないのですが、どんな議論だったのですか。

鈴木 89年に生協労連が全労連に結集したことが一つの契機になったと思いますが、「パート懇」の世話人会議の機会ごとに、生協労連加盟のなかまたちから「話がある」と呼び出されることが多くなりました。それだけではなく「一致点での共同」を何より重視して発展してきたが、「パート懇」だけでは全労連の運動に対応できないのではないかという声があがってきました。

パートのなかまの運動の到達点が、もはや「三つの合言葉と六つの申し合わせ」の枠の中には納まらないところまでエネルギーが高まってきたのだと思う。運動の発展がそこまできたんだね。

 布間 確かに、自分たちの運動がこれでよいのかというところにパート自身がぶつかった。ただ定期的に世話人会を開いて、署名を集めるだけの活動でよいのかと、満足できないところにきていたのですね。

 志村 私たちは協議会として「パート懇」の総会に参加していたのだけれど、活動方針を拍手で確認することに、物足りなさを感じるようになっていた。だから東都パート協議会は、パート部会が再開してから生協労連加盟を決意し、労働組合として組織を転換させていったんです。上部組織としての指導性をもったパート部会を求めていたからです。

 鈴木 志村さんの今の言葉にあるように、当時「パート懇」をもっと指導性のある「労連」組織に発展させてほしいという声もでてくるようになったんです。私たちはその声を、生協労連にいよいよ「パート部会」活動を再開させてほしいという声として整理をし、生協労連としての検討を開始したわけです。

 橋本 パート部会再開に関して、それぞれからお話を伺いたいのですが。杉山さんどうですか。

杉山 「パート懇」の時代は長島さんが関わっていたので、私は時折「パート懇」の総会に参加するくらいでした。パートで働く女性の中に、すばらしい人たちがたくさんいて学ぶことがいっぱいで、「パート懇」だとか「パート部会」ということはあまり意識しないでやっていました。労働組合の専従になった翌年に「パート部会のことはあなたね」と、長島さんからとつぜん中央幹事の役割がふられたのです。広島大会では、私も東海地連の職場の劣悪な実態を発言したのですが、その時の「ふつふつとしたパートの発言」から熱気を感じましたね。

 布間 90年の広島の大会で多くのパートが部会再開を求めて白熱した議論をしたという報告を聞いただけで、私もその場にはいなかった。「パート懇」の総会には参加していたが、生協労連の大会にあまり参加していなかったですね。

 八谷 生協労連の大会方針にパートの運動方針がまた書かれるようになったのはいつごろからなのですか。

鈴木 さきほどの生協労連の広島大会でパートのなかまが相次いで発言したのに対して、「今後パート部会の再開準備の検討をはじめる」というまとめをしました。その次の年から、パート部会に関する方針を、ふたたび記述するようになりました。生協労連に加盟しているパートのなかまによって構成する「パート部会再開をめざすパート委員会」を設置することにしたんです。

 

生協の50人を超えるパート専従は、

日本のパート労働運動の貴重な財産

 

 八谷 私は、広島大会の90年にかながわ生協労組の専従になったのです。次の年の生協労連の大会に参加して、方針にパートの要求がここまで書かれているのかと、とても新鮮な驚きを覚えましたね。

 橋本 驚きを持ったということは、かながわの運動の積み上げがあったからそうした問題意識をもつことができたのだと思うのですが。

 八谷 かながわの場合は80年にパート労組が結成されたときに、三人のパート専従を配置して活動がスタートしました。「みんなで論議し、みんなで決定し、みんなで活動する」という、未熟であってもパート独自で三人の専従を中心にして集団的な論議でやってきたという実感がありますね。「正規」の指導や指示で動くのではなく、パートの役員の結束力が原動力でした。その後85年に「正規」労組とパート労組が合同し、私は90年に専従になったのです。さいたまの木村さんから専従になったその年に「あなたがパート懇の世話人よ」と説得されて、「なんで私が全国世話人なんですか」と文句を言ったことを覚えています。

中央の世話人会に参加するようになって、鈴木さんや京都の三浦さん、おおさかパルコープの稲垣さんたちを知って、「すごい人たちだな」と本当に学ばせてもらいました。世話人会は「目からうろこが落ちる」というように毎回が学習の場になりました。広い視野で労働組合とは何か、原則的にたたかうということはどういうことかを全国の仲間や鈴木さんから教えてもらいました。

 橋本 パートが労働組合の専従になることや中央にでていく意味は大きいですね。

 八谷 自分の経験からも、そのことは大きかったと思いますね。今、生協労連全体でパートの役員専従は50人を超えています。これは生協労連の財産だと思いますね。また、日本のパート労働運動の貴重な財産とも言えるのではないかしら。いま、産業を超えた「パート臨時労組連絡会」を地域で立ち上げる基盤をつくっているのは、生協労連のパート専従が中心になって力を発揮していますから。

 橋本 いま、専従が増えたなかで、パート部会としてみんなが何を望んでいるのかを、きちんとおさえていくことが大切ですが、そのことでのご意見はどうでしょうか。

 布間 「パート懇」にしても「パート部会」にしても、全国のなかまと一緒の場に出ることは大事だと思います。全国の仲間から学び、働くパートの状況や労働条件を自分の単組と比較しつつどのようにすすめていくのかを考えて、単組に戻れば今度は自らが運動をすすめる役割をもっていたので参考にしてきた。

しかし、私が労働組合運動の方向性について学んだのは、「パート懇」の場でというより京都の三浦さんと同じ部屋になったときに、寝ないでずっと彼女の話しを聞いて「ものの見方」「パワー」「労働組合運動の原点」を学んだことが大きい。こういう素地があったから、「パート懇」から「パート部会」にいくときに、何らためらうことなく、私たちの方向性は「パート部会」だろうと。仲間が多ければ多いほうがいいのだけれども、パートの問題を、今きちんと課題として整理して運動をすすめていくことが大事だと思いましたね。

 

パート部会再開にむけての準備では

 

 杉山 「パート懇」ですぐれた方針をもっていたと思いますが、広島大会では「これだけパートが増えて、全員一致で申し合わせ事項のもとで活動する懇談会でいいのか」という発言でしたね。

 志村 パート委員会でどのくらいの期間をかけて話し合ってきたのでしたか。

 鈴木 4年か5年かけましたよね。広島大会後の「パート委員会」からはじめて、これを「パート部会再開準備会」として発展させながら、規約や地連組織どうするのかなどを話し合った。

 八谷 悩ましい議論をしましたよね。

 鈴木 「パート懇」の三役と生協労連三役で調整の会議もしたね。

 橋本 その頃の単組の議論はどうだったのでしょうね。

 布間 生協労連に加盟するパートの組織は、違和感はなかったと思う。こんがらがったのが「正規」のなかまだったのではないかしらね。

 八谷 そうですね。あの時は「正規」の言動が事態を混乱させましたね。「もうパート懇はいらないのだ」とか「パート懇はそんなことはしなくていいのだ」と活動の線引きをしてきたことなどがありましたね。

 

1995年パート部会再開後の活動

 

 橋本 「パート懇」と「パート部会」で、パート労働運動の相乗効果を生み出す活動をしようと1995年10月にパート部会が再開したのですが、その後の部会再開の活動はどうでしたか。

 八谷 全労連の「パート交流集会」や地域の活動に参加するようになって、「パート懇」「パート部会」そして地域の活動と、パートのなかまたちは物理的にたいへんになってきましたね。地域のなかまへの「働くなかまの要求アンケート」のとりくみは地域労連に結集する契機をつくった。それを全労連の場で、1万4千人分集めて、まとめ集を発行するところまでパートの運動を発展させてきました。やはりあの時期のパート部会の再開は、必然性があったと思いますね、

 橋本 「パート懇」は「課税最低限の引上げ署名」と「菜の花行動」を続けましたが、「最低賃金の引き上げ」の運動はどうでしたか。

 布間 「課税最低限の引き上げ」の運動の仕方にも不満をかかえながら、「パート法の改正」を求める運動もしていきたいと要求も変化してきたと思いますね。

八谷 生協労連加盟のパートのなかまは、「パート懇」だけの活動の場から、広い視野でパート労働運動を担うという方向に活動の領域を広げました。パート部会が再開されてからとても印象に残っているのは、「28人の丸子警報器の賃金差別是正の裁判闘争」の支援です。「丸子警報器」の会社がある地元長野にまでパート部会の代表が毎回要請行動に参加しました。また、裁判の傍聴には生協労連から大勢がおしかけてね。「実質的な正社員化」に近い賃金是正の和解を勝ち取って、あの集会での感激は忘れられません。

そうした支援活動を通してネットワークが形成される中で、2000年に「全労連パート臨時労組連絡会」が結成されていくのです。パート部会が再開して全労連に結集していったからこそ、この「全国連絡会」が結成でき、全労連の中にパート労働運動の課題が据わってきたのです。このこともきちんと評価すべきですね。

 

全労連パート・臨時労組連絡会の結成

 

八谷 全労連の副議長としての鈴木さんはパート臨時労祖連絡会の立ち上げは「時期尚早」といっていたようですが。

 鈴木 私は、組織問題は慎重派なんですよ。そのことは大事なことだと今でも思っています。運動の実体がないのに、ある時期の突発的な思いから組織の立ち上げを先行させた場合、どうしてもその組織は長続きしない。看板はあげたけれど機能しない組織があっちこっちにあって、組織と言うものに対する信頼を損なっていることは、運動にとってはマイナスですらあると思うんです。私は、組織はつくればいいというものではなくて、担い手が力を合わせて運動をつくり、それを定着させるためにつくるものだと思う。

たとえば、生協労連パート部会を最初に立ち上げるときの議論もそうだけれど、部会をつくるということよりも、それまでやってきた交流会をもっと実のあるものにすべきではないのかという意見を持っていてね。だから私は、昔の生協労連パート部会の結成についても、こんどの全労連パート・臨時労組連絡会結成についても、「ちょっと待った!」「担い手はできているのかい」と水をさしてきたんです。

でも、組織づくりには機運というものがあるのも事実ですからね。昔のパート部会結成が、その後パート懇との調整に苦労したという問題はあっても、やはりやってよかったのと同じように、今は、全労連の「連絡会」は作ってよかったと思っていますよ。

 八谷 布間さんは、どう思っていましたか。

 布間 私は「連絡会」はつくってよかったと思う。これを待っていたのですよ。「パート懇」から「パート部会」に動いていく流れの中で、自分たちの運動をどう展開していくのか。生協労連の中だけではだめだと気付く。生協のまわりのパートはどうなのか。その仲間と一緒にやらないと運動は進まないのだというところにぶつかっていた。「連絡会」が全国を網羅して結成されれば、パートの運動は広がって大きな力を結集できるという「夢」をみてきた。

鈴木 私の「消極論」の根拠は、毎年続けてきた「全労連パート交流集会」の参加者の8割が生協のパートで占められていて、これで生協のパートは元気になれるのか。少なくとも生協以外のところで変化が起こってこないことには、機運が生まれたとい言えないのではないかというところにあったんですよ。しかし組織というのは、旗を立てることによって、その旗に結集できるということもあるんだよね。実際にその後、他の産業にもパート労働者の運動が広がったし、結果的にあれは非常にいいタイミングでの旗あげだった。

 

人と人との結びつきが力を持つ、

切実な要求を抜きに組織化はすすまない

 

 布間 全労連の「パート交流会」が毎年開催されてきたことは、私たちにとってはとても刺激的でした。パートの争議のことや、民間の厳しい実態を知る機会になった。

 ところで「パート部会」再開後の「パート懇」の将来について、私たちは大きな「夢」を抱いたのね。それは「生協」という冠をとって生協以外のパート労働者も結集できる「全国パート懇談会」で、「一致点での共同」を大きく広げていけるのではないかという「夢」だったんだけど。

 八谷 私も、全国生協パート懇談会が、生協という枠を取って、生協以外のなかまの大同団結をつくっていけるのではないかと、大きな夢を抱いたのです。しかし、現実に運動するなかで気付いたことは、連合と全労連という大きなナショナルセンターのあるなかで、生協パート懇が連帯をつくる核になるのは無理ではないかと。むしろ、大きな連帯をつくるのは、連合のパート組織と全労連のパート組織が「パートの要求実現の一致点」での連帯をどうつくるのか、そこが大事ではないかと思いました。「生協」の冠をはずして「全国パート懇」に発展させていくのは、幻想に過ぎないのではないかとね。

 布間 先ほど鈴木さんが言われたように、「実態が伴わない組織先行型ではダメだ」というところでいま悩んではいるのです。各県の「連絡会」づくりで担い手の問題にぶつかっている。生協労連のなかまが先頭に立って役割を果たしていこうとするのだけれど、まわりはなかなか動いてくれない。そこをどうしていくのかが悩ましくて、形だけつくればよいわけではないという問題は確かにあるんですよね。

 鈴木 組織として旗をあげていなくても、人と人の結びつきが力をもつんだよね。生協パート組織が生まれてくる初期のころには、パートの中に切実な要求があり、爆発的に運動と組織が生まれました。抑えられても生まれるという、そういう生まれ方が一番好ましいのだけれど。大事なことは、いったいなかまたちは、いま、何に関心を持っているのか。どういう切実な要求を持っているのか。そういう問題を抜きにして組織をつくろうという呼びかけは、ほとんど力にならないと思う。何のためにつくるのか、という原点から組織化をすすめていくかという問題だね。

 八谷 全労連に「パート連絡会」をつくるようになったのは、先ほど布間さんが言ったように生協パートの中に、その要求があったということですよね。

 鈴木 それと、現実に運動を積み上げてきたことや、少ないとは言え、生協のなかまをはじめとした支え手、担い手が生まれていたからだね。

 

これからの運動への抱負や決意

 

 橋本 社会情勢の機運をつくるには、まわりのなかまたちに響かせる言葉をどれだけ持っているのか、ということも大事だと思います。「差別」とか「人権」とかいうことを、これまであまり意識してこなかった人たちに語りかけ、要求に気付いてもらうという役割もあると思います。そうした役割を持つ存在として「パート連絡会」があり、それを私たちが担っていかなければならない。

ともすれば、弱い気持ちになってくじけそうになることもあるのだけれど、今後のパート労働運動への抱負や決意についてみなさんで語っていただきたいのですが。

 

生協外の仲間との活動が大事、

そこから色んなものをもらってきた

 

 志村 東都も歴代の役員の名簿をみると、第2回「パート懇」総会のころからあるのですね。パート独自の労組でやってきたから、たいへんなこともあったけれども、自分がかかわっていま「東京パートネット」の運動にまで発展してきた。こうした活動のなかで、みんなから色んなものをもらってきたと思う。これをもっと多くのなかまに分けてあげたいというと「変ね」といわれるかもしれないが、「いいことたくさんあるよ、わかってよ」と運動を広げていきたい。少しは、生協外の活動が大事ということがわかってもらえたのかな、といま思えるのは、他の単組や生協以外の労組のなかまを知って、そこからまた次の参加も広がってきているからだと思います。微力ながらもっと多くのなかまを誘っていきたい。がんばります。

 

これから、「もっと、面白くなる」

「均等待遇」にむけた動きを実感

 

杉山 部会幹事を受けたころは「均等待遇」というのはまだまだ「絵空事」だった。みんなの運動もあったと思うが、非「正規」労働者の数が増えたことで質の変化もおきて、ここ1〜2年、均等待遇にむけた動きが実感できるようになってきましたね。これからもっと面白くなるのではないかと思っています。

いま、しずおかでは、パートだけでなく「正規」も含めて総合的に人事制度をどうするのかという検討が始まっています。生産性本部でさえも、雇用区分でなく仕事によって処遇を考えていかなければならないという方向になってきている。理事会もそれを参考にして、「セ・パ」の処遇を合わせた制度のことも言うようになっています。地連のなかまも外にでて関わっていく機会をたくさんもつことで、活動家に育っていくのではないか。

それから、長く準備会のままの「静岡県のパート・臨時労組連絡会」を結成させたいと思っています。鈴木さんが言われるように、生協の役員だけの実体を伴わない連絡会ではダメと、これまで準備会で活動してきたけれど、私の息のあるうちに(笑)、任期の期間中に何とか結成したい。

 

若い層が参加する労働組合に、

「パート連絡会」を大きく広げて

 

 布間 私は、生協で働くパートの働き方がぐっと変わってきたなと思っています。今まで、活動を引っ張ってきた40歳台から50歳台の年齢層の人たちが、生協も労働組合も、そして「正規」労働者も支えてなんとかここまできたと思っているのね。ただ、今後は年齢層も働き手の意識も変わってきているので、労働組合も変わらなければならないと思う。生協そのものも変わりつつあり、事業一辺倒に走り出していくときに、生協の組合員も働き手も生活が忙しくなってきて、生協運動が軽んじられてきているのではないかと危惧しています。それと20歳台の若い人や男性パートが増えてきていることから、パート労働運動をもっと違う形に発展させていく必要があるということもね。ただ、それがどんなことなのかというと、全労連がもっと一生懸命になって「連絡会」の活動を広げていかないとそれはすすまないと思っています。形だけつくればよいということで進めようとしているところがあって、本当にそれでよいのかと心配しています。

それと私たちは、年齢も重ねてきたな、先がみえてきたな、と思うんです。もっと若い人たちが生協も「連絡会」の運動も引き継いでくれないかなと、参加の仕方も含めてこれからの課題だと思っている。そうはいっても、生協労連パート部会は、しばらくはいまの磐石な形で続いていくのだと思いますが。

均等待遇について、先日岩手で開催された「第12回パート交流集会」で、「正規」の役員もパートも非常勤の人たちも含めた分科会で、均等待遇を正面に掲げてどのようにすすめていくのかという議論ができました。今ようやくその課題に目がむけられてきたという実感ですね。

 橋本 たくさんの人にそうした運動をみえるようにしていくことが必要なんだけれども、なかなかすすまないですね。

 

パート部会再開で、確認したことに向かって

着実に歩んできたことを確信

 

 八谷 みえるようにするには、私たち生協のパートのなかまが県労連(全労連の地域組織)の活動の場に出ていって発言すること、実態を知らせていくことではないかしらね。鈴木さんの話を伺っていて、生協労連のなかで、滅私奉公の働き方が広がっていることや、パートの雇用問題があっちこっちから発生していることから、あらためて「生身の人間の要求にたちかえる、運動の原点に戻ることが大切」と考えさせられました。この10年をふりかえって、今後のパート部会が生協労連で果たす役割は、「鈴木さんの遺言」から得たことを実践していこうと思いました。

 それと、95年のパート部会再開準備会の文章を読み返して気付いたことですが、「なぜパート部会が必要なのか?」を4つにまとめて確認しているのですね。「@パート労働者の運動は、すでに生協パート懇の『3つの合言葉』と『6つの申し合わせ』事項の内容を超えた運動に発展している。A生協労連の場では、『パートの運動はパート懇で』と区別される傾向があり、このままではパート問題がセ・パ一緒の議論の場で論議されにくくなっている。生協労連としてパート政策を論議し、強化することが必要な時期にきている。B全労連の方針と運動をパートの活動の場に受け止め、また逆に全労連の方針・運動にパートのたたかいや意見を反映することが必要になっているが、パート懇にそれを求めることはできない。C単組・地連レベルにはパート部会ができているのに、(生協労連の)中央レベルにそれがないのが問題である」と。これをみて、私たちがパート部会を再開したときに確認してきたことが、その方向にむかって着実に歩んできたな、という驚きをもちました。

 いま、生協労連の中央執行委員会に10人のパートの仲間が中央執行委員として参加して、「均等待遇」について「セ・パ一体」の議論がすすめられていること。また、全労連の21回定期大会(2004年7月)で、パートの課題である「パート法の改正」や「パートの処遇改善、均等待遇の実現」が重要課題として方針化されたこと、「連絡会」の活動を通じて地方労連にパートの運動の足場をしっかりとつくり始めたことなど、いまの私たちの運動の到達点をみたときに、「パート部会がなぜ再開しなければならなかったのか」ということへの答えがあり、生協労連はその時々の判断のもとに運動をつくりあげてきたのだな、と歴史的にみてあらためて確信を深めました。それが、今回の座談会で一番言いたかったことですね。

 

「正規」労働者が「安心」というのは昔の話

いまの「一人ぼっち」は「正規」中高年層?

 

 布間 もうひとつ、私が心配しているのは「正規」労働者のこと。いまの「正規」の働き方や位置づけがどうなっていくのか。効率・利益重視で店舗から「正規」を抜いて、共済や組合員拡大などの営業活動の分野に異動しているが、その影で「正規」がやめていくことやメンタルヘルス問題が発生してきている。これから先は、「正規」といえども安心して働き続けられないという事態が広がってきている。そうなると私たちは、「パートだからいいの」といっている場合ではなく、私たちの子どもや孫の時代のことを考えたときに、こうしたことではダメなのだと、「正規」と一緒にそのことを考えていくことが大切だと思う。

 橋本 これまで私たちは「『正規』はいいわね」といってきたけれど、「正規」から「パートはいいね。早期退職制度で退職するかどうか選択する場にぶつかって悩むことがないから」と言われたことがある。「どうなってしまったの」と驚きと同時に労働者全体がすでに危ういところにおかれているなかで、「正規」労働者が「安心」というのは昔の話しになっている。生計を維持していくことがたいへんという働き方が広がっていると思う。

 八谷 中央執行委員会の東海地連の報告で、「なくそうね、一人ぼっちと泣き寝入り」が中高年の「正規」労働者のあいことばとして必要になっているということが書かれていましたね。

 

「3つの合言葉」で共同を広げた経験は、

生協労働者の大きな財産

 

 鈴木 実はそのことを最後に話そうと思っていたんです。「なくそうね、一人ぼっちと泣き寝入り」の合言葉を提起してから20年が過ぎた。昨年「パート懇」が幕を閉じたと聞いたときに、この合言葉がようやく役割を終えたなと感慨無量だった。ところが先日、東海地連大会に呼ばれて行ったときに、この合言葉が復活しているということを聞いたんです。どこで復活しているかというと、とりわけ「正規」中高年層のところが「一人ぼっち」で、いつ職場を追われるのかと孤独にたたかっている。しずおかの八木さんが中高年部会のモダンな名前で「マスターズクラブ」をつくって、要求の原点に戻って「なくそうね、一人ぼっちと泣き寝入り」でたたかっているというんですね。なるほど、これは永遠の課題だと思ったね。

 労働者の労働条件はいつも差別にさらされてきたけれど、いま、その頂点に位置づいていた「プロ野球選手」が攻撃されているのは象徴的な事態だと思います。資本は、片方の極にパートなど不安定雇用を置き、そして他方の極に「正規」労働者を置いて差別してきました。「正規」労働者の中にも、流通界のスーパーバイザーとかマーチャンダイザー、プロ野球選手のように、今年は年商いくら稼ぐか、ホームランを何本打つかという成績主義で億単位の年俸制のスペシャリストを位置づけてきたわけです。それがいま、重大な経営方針の変更を当事者に何の相談もなしにやろうとしているのが選手会への攻撃です。選手たちが選手会・労組に結集してたたかうことに対して、オーナーが「たかが選手が」と攻撃する。差別の頂点に置かれてきた労働者にまで、公然とこのような攻撃が行われる時代になっている。「なくそうね、一人ぼっちと泣き寝入り」が「正規」労働者に必要になっているというよりも、労働者全体の課題として重要な時代を迎えているのだと思います。そういう時代だから、こんな境遇には耐えられないという労働者の切実な要求と怒りは、まさに階層を超えて渦巻いている。もはや「セ・パ一体」だとか「セ・パ共同」だとか言っているひまはないんですね。労働者全体のたたかいというところに立ち戻って、まさに切実な要求にもとづく共同闘争を、労働運動はどう組織するのかということがいま問われていると思います。

 そのときに、「3つの合言葉」で運動をひろげたあの経験、それは生協労働者にとって大きな財産ではないかと思うね。

「主体性の確立」と「一致点に基づく共同の獲得」という二つの課題は、二つとも前進させることができれば大きな力を発揮しますが、相互に深刻な矛盾をはらんでいます。「共同」を前面に出せば「主体性」がおろそかになり、「主体性」を重視すれば「共同」が後回しになるという関係があるわけです。しかし、私たちが掲げた「三つの合言葉」は、この両方を追求するものだったんだよ。

日本経済そのものが徹底した矛盾のなかにあって、「共同」がなかったら今の時代は難破船日本丸とともに沈没するしかないところにきている。人間の生活と権利が最大限重視される時代を切り開かなければならないし、そのことが重要だというのは世の中の常識になり始めている。その常識が広がり始めているから、「均等待遇」がスローガンになってきたということだと思う。

 八谷 うれしいですね。

 鈴木 均等待遇に関しても、その実現を妨害している社会的な諸条件を克服しなければならないし、そのためには、国民各層が各分野から民主的な改革の「共同」を広げることが欠かせないと思います。そういう視点から「部会づくり」も大切だけれど一致点を広げるというテーマの研究を欠かすことはできない。

 杉山 「パート懇」は解散するということになったが、「パート懇」直加盟のパートの仲間には「一致点での共同を広げていきましょう」ということですよね。

 鈴木 われわれは、大同団結をあくまでも大事にして、絶えず「共同」を追求していくことだよね。全労連に結集しているパート労働者の主体的な団結を中心に据えながら、連合であろうと、何であろうと、パート労働者であったら「この点で一致する」というネットワークをよびかけて、社会的なうねりをつくっていきたいよね。

 八谷 そうですね。そういう運動をつくりたいですね。

 

「パート部会のなにぬねの」こ込めた私の思い

 

 鈴木 パート部会を再会して来年で10年目ということだが、1980年に最初にパート部会を立ち上げてから数えると25年目の節目を迎えることになる。パート部会の25年のたたかいの中に、パート懇の20年の運動が内包されているわけだよね。

ところで、95年の秋に「パート部会」の再開総会を「あした天気にな〜れ」というタイトルを掲げて開いたとき、翌年から全労連に出て行くことになっていた私が、いわば生協パートのなかまへの「遺言」のような思いで捧げた「パート部会のなにぬねの」と言うのを覚えていますか。

@なかないで!あしたを見つめ歩きましょう

Aにげないで!明るい職場をつくりましょう

Bぬけめなく!しっかり実利をとりましょう

Cねつっぽく!暮らしと生協を語りましょう

Dのしつけて!差別を返上しちゃいましょう

私はこの5つのスローガンに、あの「三つの合言葉」を単なる「合言葉」に終わらせず、しっかりと実現していくための「行動指針」を盛り込んだつもりでいるんです。現実と職場から目をそむけず、暮らし全体を見据えながら、要求実現と差別一掃(すなわち「均等待遇」)に向かって前進しようというテーマは、今日ますます重要になっているなあと思っています。

いま、連合も「均等待遇」を掲げ、超党派の議員たちもこれを掲げるようになってきました。生協労連も全労連も、この機運をリードする役割を果たす必要があります。いまこそ「要求実現」と「均等待遇」を、どれだけ多くの仲間の合意にするのかが問われていると思います。

 橋本 そろそろ時間です。ずっと歴史を振り返ってお話を伺っていて、私たちがめざさなければならないもの、もう一度立ち戻らなければならない運動の原点について、よくみえたと思います。この座談会の意義はたいへん大きなものがありました。

 話し足りないところもあったと思いますが、みなさん長時間にわたってありがとうございました。