TOPに戻る
 
 
草の庵でのささいなことを、つれづれなるままに書きつづります。いわば気まぐれ日記です。
 

66年6ヶ月ぶりの幸手訪問
2007年10月8日
 
 66年半という時空を超えたタイムトラベルは終わりました。
 ぼくの万歩計で約1万1000歩。
 ぼくの家から調布住宅までの往復分が2500歩、
 病院を探すためにぼくが先に行って戻ったりした分が2000歩、
 これを差し引けば、
 お袋さんは6500歩を歩いたことになります。
 これはぼくの歩幅での計算ですから、
 お袋さんの歩数は3割は多いのではなかろうか!
 6500×1.3は、8450歩だぜ!
 90歳が何と9000歩の旅を歩きぬいた1日だったわけで・・・
 でもお袋さんは元気でした。
 今日は風呂に入って、「大丈夫よ」との電話をくれて、
 すでに就寝(こんな時間だもの当然だけど)されました。
 あれこれの報告はまたの機会にしますが、
 写真を送ります(多過ぎるかなあ)。
 

 満州で平和を考えた  「憲法ひろば」有志の旅  2007年 8月23日〜30日

お盆の墓参をしてきました
墓所は暑くて静かでした

2006年7月13日

 朝から暑い日でした。朝9時に京王多摩川駅前に集合した北多摩中央医療生協調布支部の「ウォーキング班」は約90分におよぶ多摩川散歩を実施。気温は見る見る30度をこえました。
  汗にまみれたシャツをそのままに、昼食を終えた私は、一休みしたら動かなくなりそうな身体を引きずって、調布駅から四谷3丁目まで電車に乗って、昨日母と約束した盆の墓参に出かけました。
  炎天下にひっそりと静まる墓に、カミさんが用意した心づくしの菊の花を供え、熱い墓石に柄杓で水をかけると、たちまち蒸気が立ち上り、亡き父や祖母の面影が浮かぶように感じました。それはまたとない安らかな時間でした。


亡父の七回忌の法要

2006年6月18日

 父なくて昭和も遠くなりにけり

 父・鈴木勝が逝って6月27日で満6年-----。父の曾孫2人を含む23人のうから等が集い、七回忌の法要を執り行いました。母が元気であることがみんなの喜びです。


 緑の彼方に「ヨシエ」の空があった   2006年5月11日〜14日 満州の旅

2006年5月8日
前倒しで「母の日」を祝う
 11日から14日が私のソウル旅行。そのため、14日の母の日を今日祝ってしまおうということで、母の家を訪れた。プレゼントはカミさんがアレンジした花かご。

天気晴朗 横手山より信州の連山をのぞむ   2006年4月28日

 井野隆一ゼミの第5期生と第6期生が長野県北佐久郡御代田町三ツ谷部落で「農村実態調査」を行なったのは、1962の年7月9〜14日のことだった。それから45年を経ようとする4月27〜28日、第6期生たちが、今は亡き井野隆一先生を偲びながら長野に集い、第5期の幹事であった私も、それに同行した。
  天候が危ぶまれていたが、当日は天気晴朗!折から満開を迎えた長野の桜と、地元の人さえが「こんな光景にはであったことがない」と言うほどの山の連なりが一望され、幸せな2日間となった。

この日の他の写真



折々に書いたものをまとめておきます        2006年4月9日

生協職員論を通して労働者の今日的課題をみつめる (06年2月)
 戸木田嘉久・三好正巳 編著「生協再生と職員の挑戦----新版・生協職員論の探求」

われらが青春のベトナム (06年1月)

郵政民営化は誰のため何のため? (05年5月)
 利用者・国民ぬきの可笑しな暴走
  「国民本位の郵便局サービスの拡充」を求める立場から点検しよう

市議会を傍聴しての雑感 (05年3月)


3+1=4 私に分かった数式?  2006年3月18日

 朝9時半、自分の中耳炎の治療のため自転車であらし耳鼻科へ。「だいぶよくなりましたね。来週中にまた見せてください」と言っていただくまでに2時間経過。11時過ぎにはインフルエンザの疑いのある母を伴って車で大枝医院へ。概ね1時間後には「インフルエンザではありません」という木津医師の診断をいただいてひと安心。昼食を済ませてから、風邪でだいじをとることになった母の名代で四谷の笹寺へ。房州の縁者から送っていただいたお彼岸の花を供える。
  というわけで、懸案事項を一挙に3つもこなしたわけですが、長い長い待ち時間と移動の電車の中で「博士の愛した数式」(小川洋子、新潮文庫)を読み上げたのも4つ目の成果となりました。これは不思議な物語で、でてくる数式にはついていけないのに、そのロマンが胸に迫ってきました。結局「私に分かった数式」は3+1=4てえとこかな?


 われらが青春のベトナム  2005年12月1日〜10日 ベトナム・カンボジアの旅 

枯れ菊の放つ香に風和む  2005年10月25日


 新宿での所用を終えて、次の赤坂見附での待ち合わせまでの時間が2時間近くあったので、どうやって時間を過ごそうかと考えました。そこで思いついたのが「最近あまり歩いてないから、赤坂見附まで歩いて行こう」と言うこと。
 新宿駅から新宿3丁目へ、新宿1丁目から四谷3丁目へ、歩いている内に思い出したのが「笹寺」のことです。思いつきの積み重ねでフラリと立ち寄るなど、罰当たりかなとも一瞬思いましたが、「前を通りかかったのに素通りするほうがもっと罰当たりだろう」と理屈をつけて立ち寄ることにしました。彼岸の墓参から1ヶ月以上過ぎているから花はすっかり枯れているだろう、花を買おう、と街路を見回しながら歩いたのですが、通り道に花屋はありません。寺を通り過ぎてしばらく行けば買えるのですが、行って戻ってまた戻ると言うのはいかにも億劫。結局素手での墓参となりました。

 ところが、何と墓には花が活けてあるではありませんか!これが1ヶ月を経た花なのか、それに誰かが追加して供えてくれたものなのか、それとも、全然別の花なのかは判断できませんでしたが、しおれて、一部は枯れかけている花に、心をこめてタップリ水を補給してきました。


菊の香に父の不在を思い知る  2005年9月20日彼岸に

2005年9月19日 今宵は月も出ぬそうな・・・ 敬老の日を迎えて
昨日は中秋の名月でした
「憩10周年」おめでとう!

ロシア極東のたびから帰りました 2005年8月25日〜9月1日 鈴木彰の気まぐれ通信(05年9月4日版)
親愛なるみなさま

 国会が出した結論が気に入らないから、国会を解散してつくりかえる! まるで君主制を地で行く暴政がまかり通っています。
 これを100%支持するとうそぶく党。基本は変わらないので野党と呼ばないで欲しいと訴える党。暴君に抵抗して見せながら同じレールを行くと宣言する党。・・・どの党も財界からの献金にしばられ、おまけに国民の税金を分け合う「政党助成金」に頼っている「国営政党」ですから、結局は君主の引くレールから離れることができないんですね。
 いまこそ君主の暴政に正面から対決できる態勢の最低限の足がかりをつくらなければ、戦後民主主義も平和憲法も、これらの魑魅魍魎党派の食い物にされてしまう。かく感じる今日この頃、みなさまがたはいかがお過ごしでしょうか。

 かく言う私は、今回、総選挙をおしつけてきた君主側は「飛んで火に入る夏の虫」。どんなことがあっても「確かな野党」を大きく伸ばし、魑魅魍魎諸党に深刻な総括をしてもらおう、と考えて最終盤に熱いこころを燃やしております。
 と言うとかっこ良いのですが、実は、最終盤に燃えなければならない、ホロにがい事情もあるのです。ここにその事情を打ち明け、その穴埋めに邁進する私への、みなさんの温かいご支援・ご協力をお願いしようと言うのが、まことに勝手ながら今回の「気まぐれ通信」のテーマであります。
 ・・・実は、突然降って湧いた総選挙の、非常に重要な公示前後の時期に私は、ウラジオストック、ウスリースク、ハバロフスクというロシア極東の3市を訪問してきたのです。8月25日に新潟空港を発ち(帰国は9月1日夜)、シベリア鉄道での2泊を含めて7泊8日の旅でした。
 この旅は、日本ユーラシア協会と露日協会とがウラジオストックに建立した「平和・友好・鎮魂の碑」の建立10周年のセレモニーに便乗した旅ですが、総選挙が降って湧く遥か以前に計画したものであり、私にはそれなりの強い思い入れがありました。
 61年前の8月に中国・漢口で死んだ実父(享年33歳)と、その2ヶ月前にニューギニアのアイタベで死んだ叔父(享年22歳)、生還はしたけれどシベリアでの生き延びるための営みについては語ることなく9年前に79歳の生涯を終えた義父(妻の父親)などなど、あの戦争に奪われた青春の数かずを確かめ、鎮魂し、これを乗り越えるために、それぞれの土地を踏みたい。これはかねてからの私の念願だったのです。
 ハバロフスクの日本人墓地は、空港に程近い広い霊園の一角にひっそりと横たわっていました。ウスリースクの墓地は、遥か郊外の草深い森林の中に名盤も壊れた墓石の下にありました。近所の農婦が時々清掃をしてくれているとのことでしたが、周辺の茂った草むらの奥に、多くの遺体が埋もれているのだと聞いて胸が痛みました。
 「平和・友好・鎮魂の碑」は、ウラジオストックのチーハヤ湾を見下ろす切り立った絶壁の突端にありました。海の彼方に横たわる日本を感じることのできる場所を選んで、戦後50年の年に建てられた碑は、高さ3メートルほどの大きな岩石でつくられていましたが、建立十年にして氷雪の爪あとも痛々しく、静かに佇んでいました。抑留から生還して今年82歳になった山口さんと言う同行者が、歯を食いしばってお酒をふりかける姿に強く打たれました。
 ソビエト崩壊後、社会主義の理想は民衆の怨嗟の的に変じ、それを象徴するようにモスクワではレーニン像が撤去されたと聞いていました。私はソ連が陥った重大な失政への強い落胆を覚えながらも、レーニンをはじめとする先人たちが追求した社会主義の理想、社会保障や平和への思いを通じて形成された人間尊重の諸制度が、人びとの怨嗟の的になっているということを、どうしても胸に落とすことができませんでした。
 訪ねたロシア極東には、庶民の暮らしにも心にも、社会主義の理想が生き延びていました。経済効率は決して高くないけれど、社会主義革命がもたらしたダーチャ(別荘)の普及を通して人びとの暮らしは最低限の自活を保障され、ホテルでも駅でもマーケットでも、いたるところで雇用が大切にされていました。人びとの触れ合いの中には人間をたいせつにする温かさがありましたし、広場や博物館にはレーニンの像が微笑んでいるではありませんか!
 「単純なヤツ」と思われるかも知れませんが、私はこれらの発見に、ほのぼのとした喜びを覚えました。そして、この喜びを記念するために、ハバロフスクの骨董品屋さんでレーニン像を見つけて持ち帰りました。800ルーブリ(3200円)の気高い姿を、みなさんにおすそ分けします。
 さて、蒸し暑い夜もありましたが、いま思えばアチラは天国でした。
 1日の夜に帰国したのですが、最初に驚かされたのは、暑さと東京の人ごみ! 家に帰って驚いたのは1500通を超えるメールのヤマ(その大半は迷惑メール)! そして、すでに最終盤に入っている選挙戦の熱風!・・・これらに囲まれて私は、とりあえず11日の投票日までは、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の精神で、総選挙最終盤を燃えるしかないと観念したわけです。
 2日の午前中は、シベリアを旅してきたリュックサックにビラをいっぱい詰め込んで2時間ほどの全戸配布をやりましたが、シャツも下着も、ズボンも汗でびしょ濡れ! しみじみとウラジオストックの涼しい空を偲んだものでありました。

 以上、この数日間、ヤマほどのメールをいただきながら、音信不通状態にあったことへのお詫びと、総選挙最終盤に燃える思いとをお伝えするために、ご迷惑を顧みず長々と駄弁を弄しました。
 みなさんのご健康とご健闘を祈っています。

2005年7月13日  墓参(笹寺)
墓石あり「和」の字に花の香が染みて
笹寺の静かな風や旧の盆
ピカピカで恥ずかしげなり「和」の墓石
この風は父の息かも盆の墓
 

2005年7月11日   姉が第4句集を出しました、八重洲ブックセンターで平積み(!)で扱ってます
 わが姉が、池田澄子句集「たましいの話」というのを角川書店から出しました。

 幾つかの句には心の隙間を衝かれて、ふっと安らいだり、ちょっと哀しくなったりしながら、しかし、ぼくの想像力の枠を超えている大半の句については、「後で考えよう」とスイスイと読み飛ばして、結局30分足らずで読み終えました。

 日ごろ、論文やら小説やらを楽しんでいるぼくからみると、「活字単価」がものすごく高いので、この本を買うのはちょっと損かな、などと言う俗物根性も湧いてきます。
 しかし、読後に心の隅に残る余韻は、他の書物にはなかなか望めないという感じもあり、得もしたかも知れないとも思うのであります。 ところが、そう思ったとたんに「でも・・・」とも思うのであります。

 だって、1ページに入っている活字は、ページの数字も数えて、何と40字だけ! これが206ページで本体価格2667円。1字当たりの単価は32銭4厘ということになります
 ちなみに、その本と一緒に買った「帝国を考える」という本は300ページで本体価格1800円、1行44字で1ページ17行。何と1字当たり1銭3厘、句集の25分の1です。
 俳句の世界ってすごい!・・・あれ? 結局ぼくは俗物根性に負けてるみたいだね。ハハハ・・・

 やっぱりぼくを衝くのはこういう句だな。
  忘れちゃえ赤紙神風草むす屍
  戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ

 では俗物の一句
  一晩で2回も読んで満ちて寝る
 

2005年5月2日   友ありT.Naoya 村上に仮住い中と、浄念寺の墓と庄内町の廃墟を写しくれたり

2005年3月11日 調布市議会を傍聴して(ワード文書)

 

2005年3月2日(水)

 
    1969年の新年にぼくは宣言した!   その3月2日にぼくは妻と一緒になった  

 あれから干支が3回りして今年も酉年。ぼくらは36周年の今日を迎えた。
 「他人依存ではなく未来に向けての創意と工夫で膨らんでいる」と評したぼくの風船は、その春からぼくらの風船となり、36の春と36の冬を越えてきた。1万3140の朝があり、同じ数の夜があった。晴れ晴れとした青空のもとを追い風に乗って高く高く舞った日もあるが、氷雨を含んで低く垂れ込めた嵐の雲に包まれて潰れてしまいそうな日もあった。ある時は二人の心と力が心地よく調和し、どんな問題にもひるまずに前進できたが、多くの時は、力を合わせる暇がないと言う若気のいたりに追われたぼくが、勝手に一人で突っ走り、妻は耐え続けた(と、ぼくは勝手に思っていた)。
 この間妻は、9年前の昨日実父を亡くし、6年前の9月4日に突発性難聴で右耳の聴覚を失い、昨年7月26日にくも膜下出血で倒れた妻の姉はそのまま意識不明の状態をさまよっている。かく言うぼくも5年前の6月に養父を失なったが、満身創痍の妻の奮闘は強く心に残っている。
 3年前から地域と家庭に初めて本気で身を入れたぼくは改めて驚いた。いまも現役労働者として職務に励む妻をぼくはどれだけ知っていたろう。職務に励みつつ、幾多の困難を乗り越えた妻は、職務のみに埋没するぼくをも養いながら1万3140の朝夕を、耐える暇もなくやり過ごしてきたのだ。
 今日ぼくは、この3年の経験と新しい認識に立って、妻への限りない感謝とともに、戦友としての友情と敬意を捧げずにはいられない。
 * 今夜は何と愛娘が鮨處久にぼくらを招待してくれて、36周年を静かに祝わせてくれた。しみじみと思った。「オレの36年はおんなにめぐまれたなあ」と・・・。妻のほか持つべきものは娘なり 

   
     

 

2005年2月19日(土)

 
    「20XX年 戦争する国 日本にしないために」  年金者組合・調布の仲間に紙芝居を披露  

 全労連女性部がつくった紙芝居を今日、年金者組合調布支部の執行委員会で紹介させてもらいました。
 「私はシルバーパトロールのコワイズミ・タンジュンイチローでーす」「シルバーパトロールってのは年金者組合ではありません」などと脚色して読み始めたのですが、どうしても眼は脚本に釘付け。われながら上手な紙芝居とはいえなかったけれど、よーく脚本を読みこんでやれば、使える紙芝居であることはみんなに伝わったと思います。冷汗!冷汗!

   
     

 

2005年2月8日(火)

 
    「くれまつさんがんばれ!生協応援団」よびかけ 私の仲間が名古屋市長選に出馬!  
 東海地方の生協の仲間が「応援団」をつくって、協力を呼びかけているので、その文書を以下に紹介します。
 よびかけ文のなかに挿入した似顔絵は私が協力しました。ご協力ください。
あなたも「くれまつさんがんばれ!生協応援団」に
くれまつさんを名古屋市長に! 物心両面でのご支援を訴えます
 私たちの友人であり、生協のなかまである「くれまつ佐一」さん(48歳)が、4月に行われる名古屋市長選挙で「革新市政の会」の候補者として立候補することになりました。
 くれまつさんは、名勤生協で組合員と一緒に食品の安全やくらしを守る活動にとりくみながら、生協で働くなかまの生活と権利を守る労働運動に精力的にとりくみ、現在は愛知県労働組合総連合(愛労連)事務局長として、労働者・県民のくらしと平和を守る活動の先頭に立って活躍しています。
 1月7日、記者会見で彼は、「くらし・参画・次世代」をキーワードに松原市政がすすめてきた大企業・大開発優先、市民犠牲の市政から、住民本位の市政に切り換えることを強調しました。いま、国と松原市長の悪政によって名古屋市民のくらしがとても大変になっているもとで、正義感あふれるくれまつさんは、「なんとかしなければ」と立候補の決意を固めたのだと思います。私たちは、そんな頼もしい彼が大好きで、誇りに思っています。
 そんな彼を力一杯応援するために、私たちは「くれまつさんがんばれ!生協応援団」を結成し、全国の生協内外のなかまに支援を呼びかけることにしました。くれまつ市長誕生のために、この「応援団」へのご参加もふくめて物心両面のご支援をお願いします。

私たち東海のなかまは知恵と力を合わせて全力で奮闘します
「くれまつさんガンバレ!生協応援団」呼びかけ人
  田辺 準也(元名勤生協副理事長)
  若井 和則(名勤生協労働組合委員長)
  長谷川 剛(東海コープ事業連合情報システム部)
  懸樋 妙子(名勤生協労組パート部 部長)
  伊藤 英樹(元みかわ市民生協労組委員長)
  伴野 博康(前みかわ市民生協労組委員長)
  中島 淳一(みかわ市民生協労組書記長)
  虻川よし子(みかわ市民生協労組パート部 部長)
  吉岡 俊雄(コープぎふ共同購入運営部)
  広瀬 吉彦(コープぎふ労組書記長)
  福井千代子(コープぎふ労組パート部 副部長)
  福島 律子(コープみえ労組パート部 部長)
  八木 澄人(コープしずおか組織本部)
  耳塚 久広(生協しずおか労組委員長)
  杉山美代子(生協労連東海地連パート部 部長)
  長島 光子(元生協労連東海地連パート部会書記長)
  小野 裕子(元コープしずおか理事、掛川西高同級生)
くれまつさんガンバレ!生協応援団加入申込書
氏名
住所または所属
募金
口数
金額
       
 くれまつさんへのメッセージ
      ※ 応援団の入会金は1口1000円です。よろしくお願いします。
      ※入会用紙はメッセージを添えて下記まで送付下さい。

    ◆支援・支持の活動を支えるために、全国のみなさんにお願いしたいこと
     @くれまつ佐一さんに、みなさんからの熱き応援メッセージを届けてください。
     A名古屋市のお知り合い・ご親戚には一声かけていただくことと、これから予定される宣伝活動に、
        
ご都合がつく限りご支援・ご協力いただければ幸いです。
     《入会金・お振込先》  
     名古屋銀行  藤が丘支店  普通 3335563 
       開かれた市政を作るお勝手なかまの会 代表 若井和則
     東海労働金庫 名古屋北支店 普通 7985093 
       お勝手なかまの会 代表 若井和則
     《応援メッセージ・受付・お問い合わせ》
       〒465-0052 名古屋市名東区猪高町上社字井堀25-1 名勤生協労組付け
       FAX(052)703-5173 TEL(052)703-3019
       E-MAIL kwakai@tcoop.or.jp
   
     

 

2004年12月22日(水)

 
    気まぐれ版「郵政改革」の提唱  鈴木彰の気まぐれ通信(04年末版)  
 年末も押し詰まり、皆さまにはいかがお過ごしでしょうか。実は私は、年末になると単に慌しい師走の課題に追われるだけではなくて、膨大な発信数になってしまった「年始のあいさつ葉書」(通常「年賀状」と呼ばれています)づくりに忙殺されます。小学校時代の恩師から、生協労連、全労連、社保協時代に得た無数の友人・知人にいたるまで、その数1000通を超えるにいたり、それを印刷し、ひと言づつの肉筆の挨拶を書き込み送付するというのは、愉しいけれど凄まじい労力と体力を要します。加えて近年、やれ民営化だとか何だとか、感じの良くない存在となっている郵政省に、膨大な金額を貢ぐことが苦痛となっており、とりわけ年金生活に移行した昨今には、それがたえがたいものになっています。
 そこで私は、昨年の「年始のあいさつ」を期して、約1割のみなさんに対して「メールによるご挨拶」を断行させていただきました。1人ひとりへの肉筆あいさつも記入できないうえに、BCCを使っての送信は記録も残らない。しかもアドレスが変わって突き返されたものが誰宛のものかを判断するのが相当にむずかしい。などなど欠陥だらけの「メールによる挨拶」ですが、これから次第に暮らしを切り詰め、静かに浮世から退場していこうとする「草の庵」主人としては、自己満足ながら、この路線の拡大しかなかろうと悟りの境地に入りつつあります。
 ・・・というわけで、来春の「年始のあいさつ」は私がメールアドレスを掌握しているすべての方に、勝手ながらメールで送信すべく、目下準備中です。
 そうは言っても、メールアドレスの普及は、私の友人・知人名簿の中で今だ3割程度であり、その他の方に対しては、実に残念ながら「次第に疎遠になる」と言う卑屈な対応をするしかないかなあ、と思い悩んでおる次第です。

 何だか妙な話題になりましたが、今日の「気まぐれ通信」の主題は、この12月から、またもや新たに担当することになっ(てしまっ)た「調布・憲法ひろば」のWEBサイトのお知らせです。ご覧いただくと、私が調布のまちで、何に引かれ、何にうつつを抜かしているかが分かっていただけると思います。ご覧になり、またアドバイスをお願いします。
  
<調布「憲法ひろば」のWEB>
 ついでに、これはいつもの繰り返しで、少しシツコイかとは思いますが、私の担当している各種WEBサイトのご案内もさせていただきますので、ぜひこちらのページにもお立ち寄りください。
 皆さんのご健康とご隆盛とご多幸をお祈りします。
 良いお年を!

<プライベートサイト>
● 草の庵
● 案山子のうた

<平和・民主・暮らしのサイト>
● 全日本年金者組合
● 憲法会議
● 九条の会 (最新情報と運動のページ担当)
● 有事法制は許さない運動推進連絡センター
● 全労連・年金闘争のページ
● 生命地域

<年金者組合調布・生協診療所・パソコン同好会のサイト>
● 多摩の年輪WEB版
<調布と全国の後援会サイト>
● くらし@調布
   
     

 

2004年12月18日(土)

 
    青年劇場「17才のオルゴール」鑑賞記  

 日本障害者センターの開設(02年7月)にあたって私は全労連サイドの担当者だった。同じ月に行なわれた全労連大会で任期を終えた私には、直接的には何の手伝いもすることが出来なかったが、センターの開設には私なりの深いよろこぶがあった。
 その日本障害者センターが始めての文化事業として青年劇場の「17才のオルゴール」上演運動にとりくんだ。その上演日が今日、会場は調布グリーンホールだった。
 いまの私には、さしたる観客組織力もないからせめて自分が観にいくことにしたのだが、さいごの土壇場で、わが娘が同行してくれた。

 「17才のオルゴール」は、原作=町田知子、脚本=森脇京子、演出=堀口始と言う陣立てで、力のこもった作品だった。重度の障害を持つ少女の心の中で激しく渦巻く葛藤、肉親や友人たちが織り成す愛憎、これらを通して正面から描かれるいのちの尊厳が強く心に迫ってきた。葛藤の果てで、少女が母親に言う「命をありがとう」の言葉はさわやかさとともに底知れぬ重みをもっていた。(写真は青年劇場サイトから借用)

   
     

 

2004年12月7日(火)

 
    親愛なるみなさま 気まぐれ通信で〜す  
 年末も押し詰まってきましたが、いかがお過ごしですか。
 小輩、退役者らしく静かに暮らしたいと念願いたしておりますが、なかなかそうは行かないものですねえ。長引く経済停滞と度重なる台風・地震災害のもとで、暮らしを維持・復興するために草々は、奮闘の日々に追われているのに、暮らしを支援するどころか増税・社会保障破壊に走る政府・与党の安易な政治。災害からの復興支援ではなくイラクでの戦争支援に飛ぶ自衛隊! しかもいま、私たちがそのもとでこそ生きてきた平和憲法を、なし崩しから本格改悪へ、破壊しようと言う動きが露骨になっています。
 全国各地の親愛なるみなさんも、おそらくはこれらの動きに怒り、憲法改悪に「待った」をかけようと懸命に努力して居られることでしょう。
 今日は、今朝の「朝日新聞」むさしの版に載った記事を紹介しながら、みなさんのご奮闘にエールを送ることにしました。私は30年以上も住んできた調布の町に、実に素敵な老若男女の皆さんが山ほど住んでいることを、退役後に知りました。「九条の会」の呼びかけに応えようと集まったこれらの人びとと、ゆっくりとじっくりと準備してきた「日本国憲法を暮らしに地域に生かす」ための市民的なアクションが、明日8日に一つの節目を迎えます。それを分かりやすく紹介してくれたのがこの「朝日」の記事です。
 調布市にお住まいの友人・知人のみなさんに集会への参加を呼びかけていただくこともお願いして、近況報告とします。
 寒さが厳しくなります。みなさんのご健康をこころから祈っています。
   
     

 

2004年11月20〜21日(土・日)

 
    母・幸枝の米寿を祝って20人!  
   
     

 

2004年11月10日(水)

 
    「調布市平和祈念祭」に参加  
  母と一緒に、戦没者遺族として「調布市平和祈念式典」に参加してみた。主催は調布市と調布市遺族厚生会。市長をはじめ調布市議、調布出身の都議・国会議員らが列席して、戦没者、戦災被災者、原爆被爆者のために黙祷・献花する厳粛な儀式だったが、市議会議長のあいさつに「散華された皆さまのおかげで今日の日本の繁栄がある」とやら言う挨拶には恐れ入った。(写真、左は挨拶する長友市長、右は参列する母)
 
 
     

 

2004年11月5日(金)

 
    40年の時空を隔てて   東経大新聞会の猛者がつどう  
 
 午後6時、新橋駅前SL広場に集合、新橋1丁目のTKKビルの地下にある新潟の酒処「越州」でくつろいだ。
 「越州」は新潟県三島郡越路町朝日の造り酒屋だが、中越地震の被害を受けたということで、その「朝日山」という酒は危機にさらされているという。新橋店の電話番号は03-3597-8960。どうぞご贔屓に!と統括店長の高橋さんが言っていた。
 それはさておき、往年の新聞会も、40年の年輪を重ねてみごとに熟成。津村・中尾の両先輩を囲むかたちで、往時を語り近況をまさぐり、大いに意気を挙げたことであった。
 
     

 

2004年11月4日(木)

 
    映画「草の乱」を鑑賞  
 
 「草の乱」を見るために立川まで出かけた。シルバー料金1000円也で入手した「製作協力券」を持っていたのだが、立川で上映しているという情報が昨日入ったので早速出かけたわけ。
 交通費が往復620円、パンフレット代が600円、おまけに昼飯代が800円、しめて3020円になったから、シルバー料金とは言え侮れない出費となったけれど、これはいまどき痛快な映画でした。明治初期(いまからちょうど120年前の1884年)の「秩父事件」をテーマに、こんにちの世相を見事に描き出していた。埼玉労連や埼玉土建の仲間たちがボランティア・エキストラで活躍したと言う、その痛快な一場面が左。

 
     

 

2004年10月1日(金)

 
    運転免許の更新の際、井野先生の碑に立ち寄りました  
 
 台風21号が行き過ぎた今日は、みごとに晴れ上がりました。一昨日の誕生日から昨日まで京都で行われた「ライフビジョンセミナー」(日生協福祉推進協議会主催)の講師を務めたために後回しにした自動車運転免許証の書き換えに、朝から府中自動車運転試験場に行きました。
 手続が1時間足らずで終わったので、隣の多磨霊園に恩師・井野隆一先生の記念碑を見舞うことにしました。
 4月8日にゼミ同期の中村・森両兄とともに訪れて清掃してからちょうど半年、墓所と碑は茂り始めた草たちに囲まれて晴天のもとに涼やかな風貌を見せていました。
 今日は清掃のための何の準備もしていなかったので、草むしりは怠けて、セルフタイマーで記念撮影。先生のお人柄に心酔し、その高きお志を引き継ぐことを夢見た自分の若き日々を静かに懐かしんできました。先生の足もとにもおよばぬまま、セカンドライフの道を探しあぐねている自分を思うにつけ、井野先生の偉大さが胸にしみました。
 
     

 

2004年9月20日(月)

 
    突然、お彼岸のお墓参り  
 
 
 
     

 

2004年9月5日(日)

 
    真夏の夜の「危険な恋」の物語  
 
 親愛なるパソコン愛好者のみなさん
 鈴木からの「気まぐれ通信」いや「おせっかい通信」です。

 コンピュータ・ウイルスの氾濫には、みなさん十分お気をつけのことと思います。私も大いに気をつけていますが、実は猛暑・酷暑にさいなまれたこの夏の夜に「危険な恋の物語」を体験しました。おせっかいなことではありますが、その「妖しくも秘密めいた体験」をみなさんに打ち明けて、いっそうのご注意を喚起したいと思います。

 それは8月も半ばを過ぎた、ある日暑い真夜中のことでした。私のパソコンに一通のメールが舞い込んだのです。それは以下のような短いフレーズだけのさりげないメールでした。

  「私のパソコンに件名も本文も書いていないメールが来たのでとりあえず返信してみました。どちら様でしょうか?私は山本と申します。間違いだったらごめんなさい。」

 私は思いました。この人はウイルスのことを知らないのだろう、教えてあげよう。・・・そこで私は以下のメールを返信しました。

 「山本さま  メール受信しました鈴木と言います。私は山本さんに発信した覚えがありません。最近、他人のアドレス帖を使ってメールを発信するウイルスがあるようですが、私のアドレスを使ったウイルスかも知れませんのでご注意ください。私のメールとパソコンはウイルスチェックをしているので、現在のところ何の被害もありません。」

 これに対して、山本さんから「ご親切にありがとうございました」とお礼のメールが返ってきました。「私は山本かやのと申します、また色々教えてください」などなどとありましたが、私は「これ以上は不要だろう」と放っておくことにしました。
 ところが、果てしなく続く猛暑・酷暑の熱帯夜が更けるごとに、「気がついたらメールしていました」とか、「6年前に結婚した人妻です」とか、「夫は今日もまだ帰ってきません」とか、「夫は浮気をしてるのです」とか、・・・時には一晩に2回も、メールが舞い込むようになったのです。薄気味悪いなと思いながら観察しているうちに、「私たちはかならず会いますよね」などのだめ押しが繰り返され、最後には「私と会うためにナンタラ言う出会い系サイトに登録してほしい」と。・・・要するにこれは、発信している人物も個人的な女性とは限らない、いわゆる「出会い系サイト」の新手の商法だったわけです。

 最近のウイルス情報を逆用した「かまととメール」とでも名づけておきましょうか。あてずっぽうのメールに返信を出してしまうと、それで相手は「このアドレスは存在している」と確信して攻め込んでくる。これもウイルスの一種だと思います。
 こちらがうっかり返信してしまった以上、二度と返事を出さず、放っておくしか方法がないということを思い知りました。この機会に「迷惑メール撃退法」についてもアレコレ研究してみましたが、アドレスを変更する以外に方法はなく、アドレスを変えたくなければ、相手が飽きるまで黙って耐えるのが最大の防御なんだそうです。
 事実、ようやくこの2〜3日は、わが「かやの」もナリをひそめています。「真夏の夜の夢」と言うにはあまりにもオゾマシイ悪夢の一席でありました。オソマツ。

 
     

 

2004年8月8日(日)

 
    調布市平和事業「平和の礎(いしずえ)展2004  
 
 「発掘された戦争遺跡/東京大空襲の記憶」と銘打った「平和のいしずえ展2004」を見学。・・・「国策」が国民のくらしと思想を巧みに、しかし実に短絡的で貧困な発想でコントロールした証拠の数々が、今の世相に対して警鐘を鳴らしていると感じた。

 「生活の合理化」というのは「くらしの切り詰め」のことだろう。つまり左のポスターは「くらしを切り詰めて貯蓄をせよ」という呼びかけだ。これを呼びかける根拠がまた振るっていた。「強制貯蓄なきは日本の誇り」「外国はみな強制貯蓄をやってゐる、日本だけが愛国心でやりぬく、この名誉を失ふな!」 だとさ! こうして貯蓄を強制したが、結局庶民の貯蓄の大半は、最後に「紙くず」になってしまった。
 いまの「国策」は、賃金抑制・社会保障負担の拡大、消費税増税などによって「生活の合理化」を押し付けている点では戦前とよく似ている。切り詰めたものを貯蓄せよというのではなくて、「貯蓄を吐き出せ」「貯蓄よりも国債を買え、株を買え」と煽っているところが戦前と一見異なるが、超低金利政策を用いてそれらを強制している点ではやはり共通している。このなかでも怖いのは、銀行を動員して国債をどんどん普及していること。これは、国の借金を増やすことに他ならないが、一旦インフレにでもなれば膨大な国債は、戦前の貯蓄と同じように「紙くず」になりかねないこと。よーく考えよう!
 
 やれ「戦時結婚の断行」だ、「家族総動員の勤労生活」だと、「生活の合理化」のおしつけは「微にいり細にいり」行なわれた。「女中をおかずに働けば主婦はいつも健康」「早起きして働くと健康になる」「増産と健康と趣味と一石三鳥」「自分のことは自分で」「子供にも家庭作業を分担させる」・・・・おおきなお世話だ!
     

 

2004年8月5日(木)

 
    「日の丸ブーイング」なぜ?    しんぶん赤旗の記事をご紹介します  
 

 今日、ある会議の場で、 「いよいよ憲法を守る課題が正念場だね」という話に花を咲かせました。日本国憲法は少しも劣化していないばかりか「よく読んでみれば実に素晴らしい生命力がある」と熱く語るHさん。「例えばサッカー・アジア杯での日の丸へのブーイングは、日本での日の丸・君が代法制化や総理大臣の靖国神社参拝など憲法蹂躙に対する批判が底流にあると思うけど、日本のマスコミはそういうことを棚に上げて中国非難に傾いてるね」と私。「護憲世論の中心であるしんぶん赤旗は日の丸ブーイング問題をもっと積極的に論評してほしいね」とTさん。・・・日の丸問題に限らず、日々現れる社会現象を、憲法を守る立場からみんなできちんと論評していく必要があることを確認しあいました。
 会議を終えて深夜帰宅してから、しんぶん赤旗での「日の丸ブーイング」問題の扱いをさかのぼってみましたら、7月30日付けに以下の記事がありました。ちょうど私が全労連大会に出席している最中の日付で、読み落としていたのでした。配慮の効いた良い記事だとあらためて納得したのですが、今日のTさんの話に、だれも「いや赤旗は書いていたよ」と言わなかったことを考えると、紙面構成上、見落とした人も多いように感じるので以下に掲載するものです。

 
     

 

2004年7月25日(日)

 
    わーい、花火だ花火だ! 調布花火大会の日に  暑中見舞いに代えて  
 
 
 
 
 
 


親愛なる皆さま、お元気ですか?
             
 猛暑・狂暑のなかで息絶えだえの鈴木彰から、暑中見舞いに代えての「気まぐれ通信」です。

 年金闘争から参院選への、文字通りホットな苦闘?を経て、しかも狂暑と風水害が同時攻撃をかけてくる過酷な日々を、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?
 皆さまのことですから、「暑い」とか「疲れた」とかの言葉は決して漏らさず、ひたすら新しい情勢のもとでの新しい意欲と決意を固めておられるかも知れません。

 最近の私は、個人・地域・各分野のホームページを結び合わせて、「くらし・平和・民主の全国ネット」を形成する日を夢見ながら、プライベートサイトの管理とともに、個人・地域・各分野のホームページづくり支援に意欲を燃やしています。
 これらのホームページを通して、皆さまへの私なりの近況報告とメッセージを発信しているつもりです。

 「全国ネット」の夢などと言っても、当初、地域のコミュニティサイトとして立ち上げた「くらし@調布」のページは地域・全国の後援会サイトに変化・発展し、これに代わる地域の民主運動サイトとして新たに「多摩の年輪WEB版」を立ち上げるなど、文字通りの「行き当たりバッタリ」「暗中模索」を続けているのが実情。この機会に皆さまに、これらの変化・発展についてのご理解をいただくために、私が関わっているサイトのURLを以下にふたたび整理させていただきます。

 酷暑耐えがたく、忙中閑なき皆さまですが、心してご健康に留意され、時折はわが「草の庵」を思い出していただき、3度に1度はご来臨たまわり、時にはご連絡などもくださることを、伏しておねがい申し上げます。


 
<年金調布・生協診療所・パソコン同好会のサイト>
● 多摩の年輪WEB版 http://www.geocities.jp/suzukichofu/
<調布と全国の後援会サイト>
● くらし@調布 http://chofusuzu.zdap.jp/
<平和・民主・暮らしのサイト>
● 憲法会議 http://www.kenpoukaigi.gr.jp/
● 有事法制は許さない運動推進連絡センター http://no-yujihousei.net/index.html
● 全労連・年金闘争のページ http://www.zenroren.gr.jp/jp/nenkin/top-page/nenkin.htm
● 生命地域 http://www.seimeichiiki.co.jp/
<プライベートサイト>
● 草の庵 http://www11.ocn.ne.jp/~suzu/
● 案山子のうた http://f38.aaacafe.ne.jp/~kakashi/
     

 

2004年6月1日(火)

 
    懐かしき再会だったのだが・・・・  
 



 村上市で幼少期をともにした従姉弟が上京。東京駅で待ち合わせるため、母と調布駅で落ちあい、2人で東京駅へ向かった。
 私は、少し早めに調布駅に行って母を待つつもりだったのだが、駅前に着くと、前方をスタスタと歩いている母を見つけた。ぼくらは大正の人には所詮かなわないということを実感した。


 東京駅に着いたのは待ち合わせ時間の30分も前だったが、従姉弟たちはすでに到着していて、その分語らいの時間を多くとることができた。それはそれで、とても良かったのだが、「おたがい手ぶらで会おう」という約束だったのに、色々な手土産をいただき、その上、食事を終たとたんに食堂の支払いをさっさと済まされてしまった。ぼくの訓練が足りないのだが、これもやっぱりかなわない。

 
     

 

2004年5月23日(日)

 
    狛江の矢野市長の三選を期して!  
 

 今日は朝から狛江を訪問。年金者組合調布支部とその上部団体である調布・狛江労連の一員として、矢野市長の三選を実現するための応援のためだ。
 狛江市長選は6月13日告示、20日投票。その後に行なわれる参議院選挙の動向にも大きなかかわりを持つ重要な選挙だ。
 圧縮をつづける国からの地方交付税や補助金が、今年も3億5千万円削減されるという厳しい状況のもとで矢野市政は、8年前に前市政が残した316億円の借金を303億円に減らしながら、市民サービスを守り発展させるという素晴らしい実績を積み重ねている。私は宣伝カーに乗せてもらって、約4時間ほど市内を回り、矢野市政の豊かな実績と「5つのまちづくりビジョン」を訴えさせてもらったが、いたるところで笑顔で挨拶してくれる市民に出会い、非常に勇気付けられた。前市政の時代に市議として借金づくりに加担していた人物が、矢野市政が借金を抱えていると非難して対立候補になるらしいが、借金の産みの親が、その借金を減らしている矢野市政を批判するというのは滅茶苦茶な話だ。狛江市民の皆さんと矢野市長のご健闘を祈る。

 
     

 

2004年5月21日(金)

 
    前進座公演を鑑賞  
 

 国立劇場の内部をみたのは初めて! 中村梅之助、中村梅雀、嵐圭史、河原崎国太郎・・・・絢爛たる舞台に酔ってきました。年金者組合の近田さん、今井さんと同席。妻も同伴。懐かしい先輩衆にも会えて、良い一日でした。 

 
     

  2004年5月1日(土)  
    三多摩メーデーに参加 狛江の矢野市長、岩佐参院議員、西川全労連副議長と記念撮影  
 

 ことしの第75回メーデーは、年金者組合調布支部のメンバーとして三多摩の会場に参加。久々に代々木公園で開催される中央メーデーに参加したい思いも強かったが、地元の仲間と一緒に参加することの意義を選んだ。
 行ってみると、全労連からはかつて同僚副議長であった西川氏があいさつに来ており、かつて私が副議長としてあいさつに来たときに同席した矢野狛江市長、岩佐参院議員にも再会できて愉快なひと時をすごすことができた。
 とりわけ6月20日に迫っている狛江市長選挙に臨む矢野ゆたか氏とは、みんなで固い握手を交わしあい、必勝を誓い合うことができた。矢野市政をつぶそうとする野合勢力との一騎打ちとなる模様だが、住民の自治と福祉の充実に傾ける矢野氏の熱い心を私は信じ、その市政をまもるためにできるだけのことはしたいと思っている。

 
     

 

2004年4月17日(土)

 
    全国労働者後援会で小池晃参議院議員と再会  
 

 私が1940年生まれだが、小池晃氏は1960年生まれ。豊かな未来を担うホープだ。
 かつて私の現役時代には医療制度の連続改悪に反対する運動をともに進めた同志。いまは党の政策委員長として、年金改革の先頭に立って奮闘中。心強い限りだ。

 
     

     2004年4月10日(土) 
     親愛なる皆様への便り
<イラクで武装集団の人質となった3人の青年>
  高遠菜穂子
 北海道出身でボランティア活動に従事
  今井紀明
 札幌市在住のフリーライター
  郡山総一郎
 宮崎県出身のフリーカメラマン
   <私が最初に送信したメール>
 親愛なる皆様、鈴木彰です、ウイルスではありません。
 イラクで起こっているトンでもない緊急事態にあたり、名古屋の友人から以下のよびかけメールを受け取りました。事態を打開する一助になればと小輩も、このメールを皆様に転送するとともに、アルジャジーラに送信するものです。 よろしくお願いします。
  アルジャジーラにメッセージを 
 イラクで拘束された高遠菜穂子さんはセイブイラクチルドレン名古屋が劣化ウラン弾による白血病治療のためアッバース君来日にあったって力を貸して頂いた方の1人です。代表の小野万里子さん自身も「大変、芯の強い、信頼できる女性です」と紹介しています。
 名古屋のメディア関係の市民団体・労働組合でつくる「市民と言論実行委員会」は3人を救うためのこの声明をアルジャジーラに送りました。代表は小中陽太郎(中部大学教授)、大西五郎(愛大元教授)です。さらに世界の友人にひろめようと呼びかけます。この呼びかけに賛同される方はご自分の名前を続け、下記にFaxまたはEmailを送ってください。友人にも転送して下さい。
 2004.4.9   「市民と言論」実行委員会(名古屋) 
  小中陽太郎(Yotaro Konaka)  大西 五郎(Goro Ohnishi)
  木村 直樹(Naoki Kimura)   榑松 佐一(Saichi kurematsu)
  荻原 典子(Noriko Ogiwara)  鈴木  彰 (Akira Suzuki)

  
<発信元> 愛労連(愛知県労働組合総連合)
               URL http://www.airoren.gr.jp
              E-mail kurematsu@airoren.gr.j
  Message メッセージの案
 Save the three!
 With draw the Japanese 
 force from Iraq!
 3人を救え! 自衛隊をイラクから撤退させよ!

  メッセージの送付先
 アルジャジーラ Aljazeera Channel
 United States and Canada(米国・カナダ)  REACH MEDIA
   E-mail  ARTAMERICA1@aol.com 
   Tel: +1 818 243 0278 Fax: +1 818 243 9278

 Australia and Asia(オーストラリア・アジア) WORLD MEDIA    
                            INTERNATIONAL
   E-mail  wmi@worldmedia.com.au 
   Tel: +612 9747 1011 Fax: +612 9747 1022

 United Kingdom (イギリス)
   Aljazeera is available as part of the ARABEST Family Bouquet
   Channel 819 on BSkyB - Sky Digital
   E-mail  info@arabest.tv OR marketing-europe@aljazeera.net 
   Tel: +44 0870 412 4444

 今日は何度もメールを差し上げた方もあり、これがはじめての方もいますが、居ても立っても居られなくて、いささかご迷惑をおかけしたかも知れません(転送・発信したメールは右の通りです)。私のふつつかなよびかけに答えて、政府関係や、アルジャジーラ関係にメールを送っていただいた方へのお礼もかねて、私なりの今日の総括を記させていただきます。

 人命を見捨てて暴走する「人道」
 暴力も戦さもいのち冒すもの
 いらだちをかみ締めている花嵐
 冒されてなお天空にとどくもの
 
 いま日本中、世界中が、日本の3人の青年の命運を決する事態に遭遇して、煮え切らない日本政府の対応に怒り、何の決定打も打つことのできない自分にもいらだっています。「できることは少しでも」という庶民の思いが、ウイルス吹き荒れるネットの世界を駆け回っています。かく言う私も、あっちこっちからメールを受けとり、あっちこっちにメールを送信させていただきました。明日が3人の青年たちにとってどういう日になるのか分かりませんが、いのちと平和を守るための最善はつくしたいし、このような事態を生んだ「暴力の連鎖」と、これを容認するだけでなく積極的に加担してきたこの国の支配層の責任は追及し続けなければならないと、改めてハラを固めている今宵です。

 色んな方からメールをいただきましたが、その中から、とくに今日の総括にふさわしいものを2点だけ、以下にご紹介させていただきます。
 最初の1つは、名古屋の仲間たちの奮闘で、イラクのモハメド医師が、アルジャジーラに送ったビデオの内容です。
 もうひとつは、高遠さんらと一緒に活動してきた西村さんという方のメールです。自衛隊派兵の強行という許しがたい暴挙に走り、武装集団の妄動を引き出したこの国の政府を許すわけには行かない。その思いが走って、無辜の青年たちに暴力の矛先を向けた武装集団の暴挙に対する評価が甘く表現されている部分もありますが、時代の逆流に憤り「自らがやらねば」と奮起している青年たちの姿を熱く伝えるメッセージです。

イラク人医師モハメド氏がアルジャジーラに送ったビデオの要約
    
「市民と言論」実行委員会(名古屋)発

 私は、劣化ウラン弾の影響で癌になった子どもをつれてイラクからやってきた、バグダット中央教育病院の医師モハメドです。私は「セイブ・イラクチルドレン」というNGOの招待で来たのですが、それは日本政府とはなんの関係もない団体です。  それはイラクのために、劣化ウラン弾が多数のイラクの人々や兵士たちに被害を及ぼしている事実を明らかにし、自衛隊を日本に撤退させる立場に立って、イラク国民の健康状態改善を手助けするために大勢のメンバーを派遣し、さらには同じような活動をしたいと思う日本人を支援するという、平和目的の活動をしているNGOです。
 3人の日本人は、そうした活動をしている人たちの仲間です。かれらは、かれらの平和的な目的をただわかってもらいたいと思ってわが国の国境を超えたのです。かれらは日本政府の決定には関与していないのですが、いまや日本政府が行ったことの代償を支払わされようとしています。私は占領には決意をもってしても立ち向かいますが、しかし、このようなやり方で占領に反対するのは、イスラムのやり方ではありません。私たちは平和愛好的な人々と好戦的な人々とを区別し、このような打撃的で非道なやり方には訴えないようにしなければなりません。こうした行動は、多くの欧米やアジアの人々に、イスラムの人々は好戦的だと信じさせることにもなるでしょう。
 ですから、私たちは率直に言うべきなのです。イラク、アラブ、ムスリムの人々が真に求めているのは、平和を確保すると同時に、自由を実現していくことなのだと。 モハメド・ダハム・ハッサン

 転送・転送で私にもたどり着いた見知らぬ女性のメール

 アラブの子どもとなかよくする会の西村陽子です。
 私は2003年の6月から約6ヶ月間、バグダッドで白血病の子ども達への医療支援を行ってきました。そのうちの3ヶ月以上の月日を高遠菜穂子さんと同じホテルで過ごし、ストリートチルドレンのケアでは一緒に汗も涙も流してきました。
 インドやカンボジアなどでのボランティア活動経験豊富な彼女は、人の死に幾たびも立会い、貧しさのどん底で這い回る人々とかかわる中で、彼らとごく自然に、喜びや幸せを分け合うすべのようなものを身につけているように感じました。どんな人の声がけにも明るい笑顔で応え、貧しい人の手の上にはイラク・ディナール札をさりげなくのせる、戦後の混乱したイラクで、言葉も文化も異なる人たちの中をすいすいと泳ぐように動き回る彼女の姿は印象的でした。
 バグダッドで活動を始めた彼女はパレスチナホテルの近くの路地で寝泊りしている少年達がシンナーを吸っていることに心を痛め、彼らをシンナーから引き離そうと奔走するようになりました。「私は彼らのお母さん役」と毎日のように衣類や食料を運び、怪我をしている少年や病気の少年を病院に連れて行きました。時には、自分より体格の大きい少年たちのけんかに体を張って止めに入り、涙を流しながら訴え、全身全霊で少年達に向かい合っていました。そして、「ハイダルがシンナーやめてすごくいい顔をしていた」「ムハンマドはほんとに優しいんだよ」とまさに我が子のことのようにその日の少年たちの様子を語っていました。
 また、「この少年達は悪魔だ。近寄るな。」と心ない言葉を浴びせる周囲のイラクの大人たちに「彼らも支援の手を必要としている。彼らに必要なのは愛情なんだ。」と説いてまわり、彼女の熱意は何人ものイラク人の心を動かしました。イラク人だけでなく、同宿の日本人たちにも「愛が大事なんだ。」と語り、「武力では何も解決しない。武器を持った日本人が来てもイラクは平和にならない。」と武
力に頼らない復興支援を訴えていました。それは、彼女の周りにいるイラク人たちの声でもありました。
 そして、その声を日本の人たちに伝えなければならないと少年達のケアをした帰り道、日没時刻を気にしながら、インターネットカフェに通いつめていました。
 「一人でもできることを」と地道にイラクの復興に向け、全てを注いで活動している高遠さんが不慮の事態に巻き込まれ、武装集団が日本政府に「自衛隊撤退」を要求するための人質となってしまったとは、全く皮肉なものです。「退避勧告が出ているのに、なぜ、危険の伴う陸路でイラクに向かったのか?自業自得だ。」確かにそのとおりかもしれません。しかし、なぜ、武装集団は彼女達を人質にとったのか?自衛隊に撤退してほしいからです。「イラクにこれ以上、兵士や武器はいらない」というイラクの人々の声を無視して、日本を含む各国が軍隊を送り込んだからです。50年以上戦争の恐怖を味わっていない日本人にイラクの人たちの武力に対する嫌悪の気持ちなどわかるはずがありません。さらに、米国の要請で日本が自衛隊をイラクに送っていることなど、イラク人はだれでも知っています。
 このように、平和的に、献身的に支援活動を行っている彼女が、復興支援の名のもとに米軍の占領に協力している自衛隊の犠牲になるなど、あまりにも理不尽すぎます。平和憲法をねじまげて、日本政府が行ってきたことの代償を彼女達の命で支払うことのないよう、日本政府の真摯な対応と自衛隊の迅速な撤退を望みます。

  2004年2月5日(木)  
    友あり。昨年末の写真を送り来たる。また愉しからずや!  
 

  昨年末の12月24〜26日、年金者組合や国公労連の仲間が先頭に立って年金改悪反対の座り込み行動を決行。私も26日、年金者組合調布支部の一人として参加しました。
  久しぶりに厚生労働省前の歩道に座り、こんな季節にこんな場所に、こんなに多くの高齢者が集まって座り込みをしなければならないこの国は、いつになったら変わるのかとの怒りを噛み締めてきました。
 うれしい副産物は、何よりも多くの旧友たちと再会でき、お互いの生き様を確認しあえたこと。 とくにうれしかったのは、厚生労働行政の冷たさを象徴するような寒気の中で、思わず襟をかき合わせていた私に、若い女性が声をかけてくれたことです。現役時代、私が行く先々に元気な姿を見せてくれた国公労連のNさん。「あいかわらずがんばってるね」と近況を語り合いました。そのとき彼女が撮ってくれたのがこの写真。今日、思い出して送ってくれたのです。
 
     

  2004年2月3日(火)  
    音もなく月日は流れて・・・「あ、もう2月が始まってる」  
 
  親愛なる皆様
  全労連が年金闘争を強化するために、そのホームページに「年金闘争のページ」をつくろうということになり、不肖小輩がその作成管理を引き受けました。1月28日はウチの愛娘が大台に乗っちゃった日であります。親として本気で子離れをすべきときがやってきちゃった日でもあります。その日を記念して「年金闘争のページ」をアップしました。
  まだ走り出したばかりで、未完成ではありますが、どうか見守ってやってください。もちろんアイデアとアドバイスも大歓迎です。
 こうして小輩、「有事法制は許さない」「憲法会議」「くらし@調布」「かいひん荘鎌倉」のホームページに加えて、またぞろ新しいサイトの管理を引き受けてしまったわけで、何となく「ホームページオタク」になりきっております。


 ・・・とまあ、こんなドサクサに紛れて、音もなく月日は流れて、わが「草の庵」は荒れ放題となっており、この「草のつれづれ」につなぎの一筆を入れるのも2ヶ月ぶり。「あ、もう2月が始まってる」、「ほんに今夜は節分かぁ!」という昨今ではありました。
 
     

  2003年12月1日(月)  
    「五日市憲法草案」のふるさとを訪ねる  
 

 地元の仲間たちがマイクロバスを仕立てた「小さな旅」に参加させてもらった。つるつる温泉を目当てにした気楽な参加で、おおいに骨休めをした一日だったが、旅の途中で立ち寄ったあきるの市五日市の郷土館が紹介していた「五日市憲法草案」には驚いた。それが、明治憲法制定の前夜に編まれたものであり、随所に自由民権の思想が書き込まれていることの驚き、加えて、この草案を発掘したのがわが母校の色川大吉氏であったことの驚き。まさに私の勉強不足、常識はずれの賜物なのだが、新鮮な「二重の驚き」を味わった。
 これは、かつて高知の「自由民権記念館」で立志社の「憲法草案」に出会ったときと共通する驚きであり、感動であった。
 日本国憲法が外国からのお仕着せなので、日本国民の手でつくり直すべきだと主張する動きが強まっている今日、国民の権利を丁寧に議論し「憲法草案」を編み上げた民主主義が、生き生きと息づいていた事実は重要である。明治憲法とは異なる民主的な憲法をつくるために奮闘した先人たちの思想と行動は、まさにわが国のあっちコッチの郷土から吹き上がったものだったのだ。そして、一旦は明治憲法のもとに組み込まれたものの、この思想と行動は、国民の中に脈々と生き続けて、戦後の、世界の平和と民主主義を求める流れと合流して「日本国憲法」を制定したのだ。こう考えると、いま「憲法」を守ることの重要性を強く実感せずにいられない。
 
     

  2003年11月21日(金)  
    はじめて「くまんばち展」を鑑賞   結成50周年を迎えた日本漫画家会議に敬礼!  
 



 
招待はがきに載った冨沢きよし先生の作品

 世相万般チクリひと刺し・・・・日本漫画家会議の「くまんばち展」。稲田年男さんに教えていただいて鑑賞にでかけました。むかし機関紙協会の機関紙大学で何回かご一緒に講師をつとめさせていただいた西山進先生の力作にであったり、かつて「生協運動」誌で馴染んだ馬場辰夫先生にお茶の接待をしていただき近作のコピーをいただいたり、おまけに今年が漫画家会議50周年(下が記念誌の表紙)と知ったり、感激もひとしおでありました。
 
     

  2003年11月19日(水)  
    全労連の猛者たち(?)と再会!   11.19総決起集会に参加して  
 

 国立病院職員の雇用を守れ!年金大改悪・増税反対、秋闘勝利をめざして全労連主催・中央社保協協賛で「11・19総決起集会」が催され、私も年金者組合・調布支部の一員として終日の行動に参加した。
 日比谷野外音楽堂での集会を終えて「銀座デモ」に出発する年金者組合の仲間たちを、明るく誘導する全労連の猛者たちがいた。かつて私もあの中にいたと思うと、感慨もひとしおだった。
 猛者たちよ!過酷な日々だろうが、この笑顔を忘れずに駆け抜けてくれ!

 

 
     

  2003年11月9日(日)  
    総選挙の投票日をむかえました  
 

 21世紀最初の総選挙は実に奇妙な構造でたたかわれてきました。それは20世紀後半の日本文化・経済・社会を金権・腐敗でめちゃめちゃにしてきた人びとが、彼らの退場をもとめる国民のねがいをかわして、何とか金権・腐敗を維持しようとしてつくったのが、その奇妙な構造のすがただと思います。
 この構造が具体的に私たちの目に見えるようになって10年が過ぎました。それまで38年間にわたって「単独政権」を握ってきた自民党が、国民の批判の中で凋落し、国会議席の過半数を維持できなくなったのは、民主主義の発展がもたらしたものであり、避けがたいものでした。ところが自民党は、国民の批判を受け入れるかのように自らの「分裂」をくりかえしながら、同時に国民世論と批判勢力を分断して、異常な「多党化現象」をつくりだしました。これらを「ガラガラポン」と称して撹拌し、一部野党を自らの政権内にとりこみ、他の野党を、仮に政権交代が避けられなくなっても、従来と変わらない基調で金権・腐敗を維持できる「分身政権」にとりこむこと。これが、今回の総選挙に現れた奇妙な構造のねらいだと私は思います。彼らの言葉でいえば「マニフェスト(政権政策)選挙」あるいは「二大政党制をつくる選挙」だったわけです。
 そして今日は投票日。民主主義と平和を築く大きな道を、紆余曲折を経ながら一歩一歩踏み固めてきたわが祖国日本の同胞は、この総選挙でどんな選択をするのでしょうか。
 北海道の親しい友が、新鮮な「おいもくん」を山ほど贈ってくれました。発芽を防いでおいしく食べきるために、箱の中に一個のりんごを入れました。効き目があるのかどうか分からないけれども、このりんごの姿は美しくも感動的ですね。このりんごの美しさに、歴史を一歩一歩前進させるために、みんなと力をあわせてひたすら生きることを念ずるぼくらの姿を重ねて、ひとり悦に入っている私です。

 
     

  2003年10月24日(金)  
    国民健康保険に加入しました  
 

 最初に健康保険に加入したのは1963年春、大学を終えて社会に出たとき。政府管掌の健保だった。1985年末に自らも準備に加わって健保組合をつくった。昨2002年秋にリタイアしたのを機に健保組合の継続被保険者となり、保険料を本人だけで負担することを経験。それから1年経ったので、この10月12日から思い切って「国民健康保険」に加入することにした。
 これは、去る8月15日に初めて年金の給付を受けたのにつづいて、いよいよ本格的な「草の庵主人」となったわけだ。
 このたびだちを記念して今日は「豚のカルビ焼き」(写真)に挑戦した。  

 
     

  2003年9月29日(月)  
    63歳の誕生日を迎えてしまいました  
 

 今日はぼくの誕生日なので、それを記念して3つのことをやりました。ひとつは、三上満さんの「明日への銀河鉄道」を読み上げたこと。ふたつは、総選挙に打って出る若林義春さんを地域に紹介するビラまきを手伝ったこと。みっつは、西友のバーゲンに出かけてズボンを2本買ってきたこと。充実した1日でした。
 夜は娘がケーキを買ってきてくれて妻と3人で誕生祝い。右は、「こっちのよりも、主賓のぼくのショートケーキの方がウンと値段が高いんだって!」と解説させられているスナップですが、妻の名誉のためにひとこと触れれば、背景が雑然としているのは、ひとえにぼくの責任です。
 ところで、山田風太郎の「人間臨終図鑑」によれば「63歳で死んだ人々」は、平清盛、ルーベンス、レンブラント、ノーベル、ドヴォルザーク、ストリンドベリ、乃木希典、豊田佐吉、野口雨情、ルーズベルト、藤原審爾・・・。
  うーん!わしゃあまだまだ未熟だなあ!

 
     

  2003年9月20日(土)  
    ここはぼくらにとって「先祖代々の墓」と言うより「思い出の詰まった墓」・・・  
 

 母のお供をして妻と私。秋の彼岸に向けての墓参です。台風が近づき天気が崩れているので、車で行きました。私の運転ですから3人とも命がけ?。亡父の加護があったのでしょう、少し渋滞はしましたが往復3時間。昼過ぎに千葉と東京を襲った震度3〜4の地震も、家に帰り着いてからのこととなり、大過なく済みました。
 父が逝って約1000日になります。生前の父が精魂込めてつくった墓碑は今日も静かでした。
 
     

  2003年9月11日(木)  
    同時多発テロから2年、満月に平和をいのる!  
 

 同時多発テロから満2年。アメリカが国連秩序を踏みにじってイラクへの報復戦争を公然と強行するもとで、自爆テロや脅迫、暴力・殺人事件が世界にも巷にも蔓延している。このような血で血を洗う「報復と暴力の連鎖」を、このまま放置してよいのか。
 今宵は満月が地球を照らし、その西方からは火星が強い光を投げかけている。これらの明るい光の中では、この「暴力の連鎖」は何とはかない色をしていることか。
 奇しくも今日、クリシャン・チャンダル(1913〜1977、インドの作家、第二次大戦中にインド「反ファシスト会議」に貢献)の「紙の船」を読み終えた。インド分割(1947、パキスタン分離独立)後の激動の時代にもみくちゃにされる世相と、その中でも貫かれる人間の愛と真実を、「10ルピー紙幣」の眼を通して描いた力作。人類に力あれ!21世紀に幸いあれ。
 
     

  2003年9月9日(火)  
    火星が月に大接近!  
 

 夜の会議を終えて帰宅した私に、
 待ち構えていた愛娘がオペラグラスを手渡した。
 だまって月を見ろと言う。
 月の下方に光っているのが、
 6万年ぶりに地球に接近している火星だと言う。
 今夜8時40分に大接近し、
 いま離れ始めているのだと言う。

 あわててシャッターを押した。
 手ブレはしてるが・・・、これは私の写真だ!
 
     

  2003年9月7日(日)  
    わりあいと文化的な日々  
 


かいひん荘鎌倉の庭(8月30日)

 私の日々は、1年前までは考えたことのなかった水準で、きわめて文化的な日々になっていると実感している。8月27日の「トルコ三大文明展」に続いて、鎌倉市由比ガ浜で大正ロマンの香りと誇りをたたえる宿「かいひん荘」を見学、その夜、母や妹、妻とともに火星を見たのもそのひとつ。9月に入り、姉に誘われて新宿紀伊国屋ホールで「楢山節考」を観劇、5日から訪れたコープとやまでは、いつものような学習会講師を勤めてとんぼ返りというパターンを改め、地元の仲間に案内してもらって水墨美術館を見学。これはもう、いままでのボクじゃない!

劇団手織座の「楢山節考」(9月 4日)
 
富山県水墨美術館(9月3日)
     

  2003年8月27日(水)  
    火星大接近の夕べを迎えて  
 


 今宵火星は6万年ぶりの大接近をするのだそうだが、残念ながら南東の空は曇っていて星一つ見えない。上は23日に天体望遠鏡が捉えた映像だそうだが、6万年の中での二日三日の違いなど小さい小さい!
 一昨昨日24日の日曜日には、家族揃って上野の東京都美術館に行って、「トルコ三大文明展」を鑑賞してきた。
  紀元前18世紀から12世紀まで続いたヒッタイト帝国、紀元395年のローマ帝国分裂によって生まれ1453年に滅亡したビザンツ帝国(東ローマ帝国)、1299年に建国されビザンツ帝国を滅ぼし、イスラム圏統合、3大陸にまたがる勢力拡大を成し遂げ、第一次大戦後の1922年に滅びたトルコ帝国(オスマントルコ帝国)という、トルコ4000年の歴史が生んだ文明の遺産が、そこに勢揃いしていた。
 オスマントルコの権勢を象徴する「トプカプのエメラルド入り短剣」は、無意味なほどに豪華なシロモノだが、隙間なく細密な装飾には思わず引き込まれてしまった。

 とりわけ、柄から鞘にかけてびっしり並ぶ果物籠の「エナメル七宝細密画」は凄い!その写真をぜひ手に入れたかったのだが、絵葉書も、右の券面やポスターに強調されている「柄いっぱいにはめ込まれた3個の巨大なエメラルド」ばかり写していて、裏側の肝心な細密画が無視されていたのが残念だ。
 何よりも、紀元前の時代の素朴でキュートな彫り物の数々にこめられた、その時代を生きた人びとの思いとロマンに打たれ、時の経つのを忘れた、すばらしい1日となった。
 たまたまとはいえ、宇宙の夢、人類史のロマンに触れて、昨今の私が捕われていた屈託の小ささを実感する数日だった。
 じつは私の屈託は、この8月中、「パソコンの不調」という問題にあった。3月に導入したADSLに加えて、この8月に「パソコン電話」を導入しようとしたのがことの発端だった。これまで使っていたルーターが、IP電話と相性があわず、もがけばもがくほど、インターネット接続に「切断」が頻発。メールの受発信さえ思うに任せない日々が続いていた。
 その問題は今日、NTTのサービスマンの誠意ある対応によって、原因は分からないままではあるが、「ルーターの交換」という手段によって何とか解決を見た。だからいま、こうして晴れ晴れとした気分でダイアリーの書き込みをしているわけ・・・。
 そんなわけで、メールを入れるべきでご無沙汰を重ねてしまった友人の皆さん、ご無沙汰いたしました。

 
     

  2003年8月3日(日)  
    調布市民の第20回「平和のつどい」に参加  
 


 われら年金者組合のテント


  原爆パネルの展示
 午前中からピースコンサートと原爆パネルの展示、夕方からは「語り継ぐ被爆体験」・・・営々と20年にわたって「つどい」を繰り広げてきた調布市民とこれを後援してきた調布市に敬意を新たにしました。

  原爆かわらも展示
 
     

  2003年7月27日(日)  
    2003年原水爆禁止国民平和大行進、調布〜狛江コースに参加  
 

 調布での平和行進に初めて参加しました。調布市役所前を13時に出発して狛江での解散は14時30分。おおむね50人ほどの参加でした。
  まだ梅雨明けではないと言うけれど、今日の空は青く雲は白く、さながら真夏の暑さでしたが、一昨日国会で「イラク派兵法」が強行採決されたことへの怒りをこめたシュプレヒコールは高らかに響きました。
 今年の原水禁世界大会への参加は断念させてもらいましたが、戦後58年、地域の隅々から営々と繰り広げられてきた網の目行進の現場に身を置く意味を、深く考えさせられました。
 
     

  2003年7月26日(土)  
    「ゴーヤチャンプル」  
 

 24〜25日の全労連評議員会に出席。久々に、第一線でたたかう仲間の熱い息吹に触れて、いささか興奮しています。ちょうど国会では与党3党が「イラク派兵法」案の強行に狂奔しており、国会と評議員会を掛け持ちで頑張る仲間に、あらためて深い敬意を抱きました。おもえばちょうど1年前には、国民運動局のメンバーとして、私自身が連日の国会行動に汗を流していました。そのさなかに、強い動悸・息切れ・微熱を覚え、若い仲間たちの手で順天堂医院救急外来を受診したのが7月12日だったことを思い出しました。政治の横暴がつづくかぎり、第一線は手を緩めるわけにはいきません。だから、過労や熱中症の危険を顧みず、たたかい続けます。私がリタイアし、あたらしい暮らしの境遇にどう生きるかを模索しているいまも、戦列を乱さず、熱いたたかいを繰り広げている仲間たちへの友情と信頼が、かぎりなく膨らむのを覚えました。みんな!くれぐれも健康に留意して!
 今日はうちの娘の友人を迎えて、私が「ゴーヤチャンプル」をつくりました。全労連の若き友、M君が、「いまはゴーヤチャンプルがいいですよ」とアドバイスしてくれたので・・・
 出来映えは良かったのに、写真がピンボケで残念。  
 
     

  2003年7月23日(水)  
    今日は「とうがんと枝豆のマーボー風」  
 

 昨日のパソコン塾で、こんどはKさんから「とうがん」をいただきました。今日はこれに挑戦、「とうがんと枝豆と豚ひき肉」を用いたマーボ風料理を仕上げました。例によってNHKの「今日の料理」8月号で見つけた料理です。
 「とうがん」というやわらかい瓜は、これまでに何度もたべたけれど、調理するとなるとなかなかの難物?でした。だいいち、ワタはかなりしぶといし、皮にいたってはガンガンに硬く、皮むきの刃が立たない場所もあって、そうとうにビビリました。しかしワタと皮をのぞいた「とうがん」は、慣れ親しんだいつもの「とうがん」 で、ゆであげると美しく透き通りました。
 豆腐の代わりにみょうがをたっぷり入れるというのがミソだというので、わざわざ買ってきたのに、その存在をコロッと忘れて、最後にあわてて放り込んだという点をのぞけば、手順はおおむね成功!? なによりも、非常においしい。え、そうは見えない? それはやっぱりライトの具合じゃあないかな。ともあれKさん、ご馳走様でした。

 小冊子「描いた書いた駆けた」への感想や激励のお便りを山ほどいただいて感激の日々をすごしています。その中で、ほめてくださる方の多かった「二人の父への挽歌」の全文を、当庵の「奥の細道」のページから「著述・著作・執筆一覧」を経てリンクしました。これを契機に、著述類を少しづつアップしてみたいと思っています。
  

 
     

  2003年7月9日(水)  
    いんげんと春雨の炒め煮に挑戦  
 

 月2回のペースでパソコンによる「ニュース」づくりの腕を上げようということでぼくが講師役で「パソコン塾」をはじめました。Sさん宅を会場に今日が3回目ですが、講師が講師なのでスムーズというわけにはいきません。
 忍耐づよい塾生に助けられながら、ぼく自身は「共同研究会」と思っていますが、教えるために予習をやるのが自分にとって非常に身になります。
 今日は塾の途中でSさん宅に来客があり、ご自分でつくられた野菜をたくさん持ってきてくださったので、おすそ分けにあずかってしまいました。さやいんげんと茄子、きゅうりとトマト、いずれも鮮やかな色あいの傑作。
  この感動をかたちにするには、おいしく料理するのが何よりだろうと、家に帰って腕を振るった成果がこれ、名づけて「さやいんげんと春雨の炒め煮」というシロモノです。NHKの「今日の料理」テキスト6月号からアレンジ。いんげんは茹でずにじかに煮る、豚ひき肉入りのピリ辛味、最後に入れたゴマ油が効いて、こいつは案外いけました。ごちそうさまでした。
 「ところで、塾はどうした?」なんて、野暮なことを聞くもんじゃないよ。  
 
       

  2003年7月6日(日)  
   恩師・井野隆一先生を偲ぶ碑が完成。感無量なり!  
 

 昨年9月から募金をよびかけ、手探りで準備をしてきた「井野隆一先生を偲ぶ碑」がついに完成した。先生のご逝去後満2年(三回忌)にあたる7月1日を建立の日として、昨5日には井野農経ゼミ同窓「かかしの会」が総会を開いた。
 梅雨の合間を縫ったすばらしい晴天に見舞われ、かかしの会のメンバー34人、先生のご親族9人、先生の居住地であった八王子の有志3人、計46人の顔はすがすがしかった。これだけの事業が短期間で完成できたのは、やはり先生のご人徳であることを実感し、そのことを実感すればするほど、もうしばらく生きていていただきたかったという思いが深まる。
 現役生活から離れ、いささかなりとも人間優先の暮らし方を取り戻しているいまならば、先生の最後の日々にもっと心をこめて見舞うことも出来たし、悔いの無いお弔いもやれたのに・・・。でも、ぼくらが現役生活の中で逃げ出さずに生きることを、自らの実践と結んで、もっとも良く理解してくださった先生は、あの日々をも暖かい微笑をたたえてみつめてくださったにちがいない。
 思えばぼくらは青春の中で先生と出会い、そこから多様に人生を積み上げてきた。かかしの会のメンバーの半分は、すでに定年とリタイアを迎え、言わば晩年にさしかかっている。13人の「かかし」が、晩年にいたらぬまま彼岸に旅立ち、井野隆一先生までが彼らの後を追ってしまわれた。こうしてぼくらの青春の日々の証は一つひとつ姿を潜める。
 だが、言うなかれ青春は滅びぬと! いまここに一つの証がうまれたではないか。青春の日々に先生と出会い、先生のご人徳を絆として、それぞれに道は違っても同じ時代を歩んできた「同門の徒」が、先生のご親族と一緒にここに築いたひとつの証。この碑こそぼくらの青春のひとつの結実、先生の傍らによりそって未来に生きるシンボルじゃないか!
 
       

  2003年6月16日(月)  
     わが「まんが・カット&著述集」の発刊にあたって  
 

 生協労連が、ぼくの在任33年を記念して「まんが・カット&著述集」を発行してくれた。A4版80ページのボリューム。表紙には、わがホームページ「草の庵」のトップページをあしらい、裏表紙には、1984年から96年まで、ぼくが毎年の楽しみとして作成にあたった「春闘ワッペン」が並べてデザイン化されている。生協労連でぼくがもっとも力を入れてとりくんだのは、組織づくりであり、その基礎を固めるための理論政策活動だったが、そこでのストレス解消を助けてくれたのが、これらのまんがやカットを描くことだった。それ自体に厳しい締め切りがあり、それもまたストレスの種であったことも事実だが、春闘時に全国の職場を訪ね、なかまたちの胸に輝くワッペンを見るのは言い知れぬよろこびだった。  
 ちょうど雇用保険の受給期間が切れて、年金生活に落ち着こうかと、いささか「淋しい気持ち」も味わっているときに、何よりのはなむけを施してくれた生協のなかまに心から感謝する。

 右の絵は表紙裏に載せたものだが、大判をこの庵の「蹲(つくばい)」にUPする。

 
       

  2003年6月9日(月)  
    6月はいつも激動  今年は年金削減と有事3法が同時進行!  
 
 6月3日、それは8ヶ月におよんだハローワーク通いの最終日だった。朝9時に職安に赴き、担当官に「お世話になりました」とあいさつし、その足で社会保険事務所に立ち寄って「年金をいただきます」と挨拶をし、「さあいよいよぼくも年金生活だな」と深い感慨を覚えながら家に帰った。ポストに郵便が届いていた。何気なくそれを手に取ってみると、差出人は社会保険庁・社会保険業務センター。アレッ?もう年金が出るのかな、瞬間そう思ったが、そんなわけはない。開くと「年金改定通知書」という文字が眼に飛び込んできた。「平成15年4月分から年金額が改定されましたので通知します」「改定後の基本額は次の通り」として、「平成14年度の基本額×0.991【1-0.009(0.9%)=0.991】」という計算式が記されている。ぼくは、60歳から年金の給付を受けることのできる世代に属し、支給年齢延長にさらされる後輩たちを気の毒に思っていた。仕事の都合で62歳になった今日まで年金を受け取らずにきたのだが、要するに受け取る前に年金額が引き下げられてしまったわけだ。
 6月6日、それは昨年2月、ぼくが現役最後の仕事として立ち上げに参加した「有事法制は許さない!運動推進連絡センター」をはじめとする国民各層の16ヶ月におよんだ運動と悲痛な叫びをを無視して「有事3法」が国会で強行成立させられた日だ。世界に誇る平和憲法を踏みにじり、日本を「戦争する国」につくり変えようとする、それは飛んでもない法律だ。同センターは「これからが正念場!」という立場で声明をだし、有事法制を具体化させないために今こそ立ち上がろうと、すべての国民に訴えた。この訴えを広く知らせ、新しい運動をつくりだすために、同センターのホームページを立ち上げようという相談がまとまり、ぼくも協力を求められた。大急ぎで立ち上げたサイト(下のボタンからどうぞ!)だから、まだ不十分なものだが、平和と民主主義を守る運動の一助たれと願うこと切である。

  
 6月8日、ぼくはこれらの問題への私なりの打開を求めて、調布年金者組合の定期総会で執行委員になった。
 そして6月27日には、3年前、ぼくが現役の激務と総選挙の激動にかまけて十分な介護もできぬまま見送った親父の4回忌がやってくる。
 
     

  2003年5月30日(金)  
   法師温泉は新緑と河鹿の声に満ちていました  
 


 5月27〜28日に開いた全労連顧問会議のチャンスを生かし、群馬県・法師温泉「長寿館」と「猿ヶ京ホテル」を渡り歩いてきた。
 弘法大師が見つけたという法師温泉に江戸時代の旅篭の面影を残す「長寿館」。鹿鳴館風の窓をもつ大浴場は、大きな湯船を升目に仕切って、升目ごとに丸太が渡してある。与謝野晶子が「山のいでゆの丸太のまくら」と詠んだものだ。これにつかまって湯に入り、これに頭を乗せて体をあずける。河鹿の声に耳を澄ませば、足元の砂利を通して豊かなお湯が湧き出して全身をやさしく包む。湯からあがって、昔のままの囲炉裏端に座ると、茶釜から注ぐ湯でおいしいお茶も入れてくれる。食卓にはこんにゃくの刺身や「うるい」という山草のおひたし、・・・もう、これは悦楽の世界だ。
 猿ヶ京は、上杉謙信にまつわる古戦場。「猿ヶ京ホテル」を足場にレンタカーを駆使して、谷川岳、吹割の滝、たくみの里まで足をのばした。こんな豊かな時間にきっかけをつくってくれた全労連に仲間はもとより、運転を担っていただいたSさん、コーディネイトをしてくれたIさん、豆腐づくしの見事な食事を振舞ってくれたホテルの料理長に心から感謝の気持ちをささげたい。


 
       

  2003年5月23日(金)  
   もう一度、母のセピア色の世界に触れる・・・  
   下の写真は1918年(大正7年)正月、新宿・束矢(つかねや)商店(酒屋)の初荷風景である。右はその写真の中央部分の引き伸ばし。束矢商店を経営していた父親に抱っこされている母の図である。
  1918年といえば、前年のロシア革命を敵視する日本軍がシベリアに出兵した激動の年。国内では富山で起こった米騒動が1道3府38県に広がった。かかる激動は束矢商店にも栄枯盛衰をもたらし、母を富裕な酒屋のお嬢さまのままでは置かなかったようだが、幼い母が新宿御苑界隈を遊び場に育ち、やがて九段の三輪田学園に進学した足跡は、いまも一つだけ残っている。それは、御苑から少し四谷に寄ったところに現在我が家に引き継がれている墓地があるということだ。
 その後束矢商店主人は鎌倉に居を構える。母は鎌倉女学院に転校して、いわゆるモガ(モダンガール)を気取ったりもする。鎌倉の家は、いまも当時と同じたたずまいで残っているという。

 
       

  2003年5月21日(水)  
   母の住む6階は、窓には富士山、部屋にはパソコン!  
   私の母は86歳。3年前に夫を亡くし、いまは私の家から10分ほど離れたマンションの6階に1人で住んでいる。その部屋からは生前の父がこよなく愛した富士山の四季が眺望できるし、駅にも近くて便利だからと、母は気丈に1人暮らしを通している。5年前に胃がんを切らずに生還したこともあって医者通いは欠かせないのだが、その合間を縫って、毎月の歌会にも出かけるし、クラス会や古い友達とのデートなどなど、電車やバスを乗り継いでけっこう忙しそうに駆け回っている。
 そうは言っても、年寄りの1人暮らしはやっぱり心細いし、私たち子供らにとっても心配が多い。そこで使い古しのパソコンを母の家に持ち込み、母にメールとインターネットを習得してもらうことになり、2002年1月15日、当時85歳になって間もない母の部屋にISDNが開通した。いらい母と私たち姉弟妹のメール交信が毎日のように続いている。名づけて「元気だよメール」。面白がってディスプレイに向かう母はたちまち習熟し、最近ではGIFアニメーションを取り込んでメールに添付するなどはお茶の子さいさい。これはもしかすると、21世紀初頭の社会を彩る、ものすごいことなのではなかろうか。 
 
       

  2003年5月20日(火)  
   天の怒り?  
   私たちがちょうど、何が何でも第3次世界大戦に向かって突っ走ろうとしているとしか思えないアメリカの横暴について語り合い、いま参議院にまわされた有事法制は、これと軌道を一つにするものだという結論に到達した瞬間のことだった。幾つものフラッシュを一度に炊いたような閃光が宵の会議室を襲い、その直後に建物を揺るがす轟音。・・・豪雨がたたきつける窓辺を見て、それが雷の仕業と知るまでの数秒間、私たちは、多発テロの現場、ミサイル攻撃禍の戦場に居るような錯覚に襲われ、背筋に冷たい緊張さえ走った。
 夜更けて帰宅し、母にお見舞いの電話を入れた。「すごい雷で怖かったでしょ?」と聞いたのだが、母はケロッとして「ここでは何にも感じなかったわよ」だとさ。・・・おれ、ちょっと恥ずかしくなっちゃった。
 それにつけても憲法つぶしの有事法制、なんとかしなくっちゃ!
 
       

  2003年5月19日(月)  
   突然の訃報を受けて・・・  
   今夕は哀しいお通夜に行ってきた。亡くなったのは、私の現役時代のいわば部下だったO君のカミさん。中学3年生と2歳半という2人の男の子を遺して、享年44歳の逝去だった。父親に手を添えられ、キョトンとした表情で斎壇に花を供える幼子の姿に誰もが涙を誘われた。医療・保育・介護などの仕事を精力的にこなしてきた現役バリバリの女性だったが、心を深く病み、突然に自らの命を絶ってしまったのだという。病んでいるこの時代の苦さを、やりきれない思いで噛み締めさせられた今日であった。
 こんなわけで夜更けての帰宅となった。老いた母が1人暮らしをする高層マンションの前を通り、高い窓の灯りをいつものように見上げたのがちょうど10時だったのだが、私が見上げるのを待っていたかのように灯りが消えた。「うん、もう寝るんだね、良い子だ良い子だ・・・」と頷きながら私は帰路についたのであった。
 
       

  2003年5月18日(日)  
   ようやく日記のページを作成、されど・・・  
   日記のページは出来上がったが、ささいなことを書くというのは案外やさしいことではない。 これはかなり難航するだろうが、ぼちぼちとマイペースで書いていこうと思っている。
 今日は私の母のセピア色の世界につきあって、66年前の母と姉のスナップをスキャナでとりこみ、切り抜いてみた(右)。母は若く美しく、そして生後4ヶ月の姉はどこまでもあどけない。私はスナップが撮られた4年後に、かくも上品な家庭に生まれおちたわけである。そのことをあえて強調し確認しておきたい。
 最近母がしきりに古いアルバムを紐解くのは歳のせいなのだろう。あまり過去に閉じこもらず、今日を元気に生きて欲しいと思うのだが、そうは言っても母が生きてきた86年の人生は、母にとって一欠けらも疎かにできるものではないだろうし、とりわけ青春の思い出は、今日を元気に生きるためにも重要なものなのだろう。
  アナトール・フランスの「もし私が神であったなら、青春を人生の最後に置いたであろう」との名言が心にしみる昨日今日である。