『労働運動』誌 1992年12月号所載


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生協の「事業活動」の豊かな発展を願って  そのとらえ方、性格と存立条件   
   
鈴 木  彰

 日本生協連(日生協)の推計によれば、その会員生協の組合員数は、九一年までに一、五〇二万世帯(七〇年の五・四倍)に達し、総事業高は三兆六二億円(同一六・四倍)になりました。同じ期間に、日本のGNPが六・三〇倍、小売販売総額が六・四五倍、大規模小売店販売額が五・八六倍であったことと較べて、生協のそれは抜群の倍率です。

 こうして組織と事業の「空前規模」の記録をさらに更新したわが国の生協運動は、いっそうの強化と発展を期して、いま新しい模索と探求に挑戦しています。

 過日私は、激動する内外情勢のもとで生協運動の新しい模索と探求が始まっていることを評価しつつ、その探求の過程に、情勢に対応することを急ぐあまりに、これまでの運動の成果と教訓、「日本の生協運動の基本的価値」の継承・発展をなおざりにする傾向が生まれているのではないか、との問題意識から『日本の生協運動の「基本的価値」を考える』と題する小論を提起しました(本誌九二年二月号)。

 いま、とりわけ経済情勢が、流通規制緩和のもとでの大型店の過剰進出と過当競合、バブル経済のもとでの消費者・国民の暮らしの破壊、バブル崩壊後の不況とそのもとでの購買力の低迷などめまぐるしい変化を重ねています。

 それは、生協のとりわけ「事業活動」に直接的な影響と困難をおよぼし、生協運動の新しい模索と探求を生協運動の目的からひきはがし、これを一面的な事業対策に変質させかねない勢いを持っています。

 いまこそ私たちは、生協運動の目的を握って離さない立場に立ちきる必要があります。そのうえで、生協運動の目的にそった「事業活動」のあり方を探ることです。生協の「事業活動」の豊かな発展を願って、そのとらえ方、性格、存立条件と課題などについて、若干の整理をこころみたいと思います。

 

 1、生協の「事業活動」をめぐるいくつかの混乱

 

 資本主義のもとでの生協運動は、資本による搾取と収奪にさらされる消費者・組合員の、暮らしと家計をまもることを目的とする運動です。

 その目的をはたすために生協運動は、組合員の暮らしと家計をまもり改善することにかかわる「事業活動」と「大衆運動」をおこないます。

 したがって生協の「事業活動」は、消費者・組合員の暮らしと家計をまもり改善するという、生協運動の目的にそっておこなう「べきもの」であり、その意味では、利潤追求を目的とする資本主義的経営とは異なる「べきもの」です。

 ここで「べきもの」という表現を重ねたのは、それらは目標であって、現実の生協運動のなかでかならずしも実現できているわけではないということを強調したいからです。これらがあたかも実現されているかのように語られている場合であっても、その内容を厳密に分析すると、たんに実現していないばかりでなく、目標としてさえ明らかになっていない場合がすくなくありません。

 たとえば、日生協のさいきんの文書には、以下のような文言があります。

 「消費者が主体である生活協同組合の事業は、その目的自体が組合員の生活の向上にあり、利潤の自己増殖を目的とした資本主義的経営とは根本的に異なる。……生協は、今流通の自由化が本格的に進められ、大資本の流通支配が一層強まろうとしている中で、大資本による流通業では果たしえない役割を果たさなければならない」(日生協『日本の生協における基本的価値』九頁)。

 生協の事業が「組合員の生活の向上」を目的とし「資本主義的経営とは根本的に異なる」(べき=筆者)ものであることを主張している前半部分は、生協事業の目的を明らかにしたものであり、文面上では特段の異論はありません。

 ところが「そのような生協は……大資本による流通業では果たしえない役割を果たさなければならない」とする後半部分には、いくつかの問題があります。

 

 1、「目的」と「手段」の混同

 

 第一の問題は、前半部分で明らかにした「組合員の生活の向上」という生協事業の目的を見失い、「大資本の流通業では果たしえない役割」を果たすことを生協事業の目的そのものに格上げしてしまっているところにあります。これは、単純に見れば「目的」と「手段」の混同です。

 そもそも生協の「事業活動」は、それをつうじて可能なかぎりの「利潤」(生協運動のなかでは「剰余金」と呼んでいます)を手に入れ、これを組合員の暮らしと家計に還元することによって、実質賃

金をできるかぎり名目賃金に近づけようとする運動です。つまり生協事業は、組合員の買い物の量に応じた割戻し(値引きや「利用高割戻し」)、出資額に応じた「配当」、暮らしをまもる運動のための費用の分配などをおこなうために、「剰余金」を追求するわけです。

 そのため生協事業には、資本による搾取と収奪から組合員の暮らしをまもるという「目的」から、それを追求するために可能なかぎりの「剰余金」をもとめるという「経済的な機能」があたえられています。

 「目的」の追求を保障する「経済的な機能」は、通俗的には「目的」そのものと理解されがちです。しかしそれは、あくまでも「目的」追求の「手段」であることに細心の注意を払わなければなりません。なぜなら生協事業の「経済的な機能」は、たとえ「目的」を見失った場合も、その機能を果たすことを自己目的化することができ、一定の「剰余金」さえ獲得できれば、その存在を維持することもできるという「資本主義的な生命力」と隣合わせになっているからです。

 このような「経済的な機能」を追求するかぎりでの生協事業は、純然たる利潤追求のための経済活動であり、それ自体が資本主義的経営と異なるメカニズムを持つわけではありません。もちろん生協事業が「剰余金」を手にする方法も、基本的には資本主義的経営と何ら異なりません。

 つまり生協の事業は、世間の商業資本と同様の「取引経費の節約」や「流通過程の合理化」によって、また一般の資本と同様の「賃金労働力の導入など搾取制度への参画」によって、その「剰余金」を手にいれます。

 すなわち生協の事業は、資本主義体制の内側で、資本の目的に奉仕し資本の力を強化し、したがって資本による搾取と収奪のしくみを再生産し、これを強化することを通じてのみ「剰余金」を手にすることができるのです。

 このような生協事業の「経済的な機能」は、あくまでも生協運動の「目的」を追求するための「手段」として、生協組合員の要求にもとづく民主的で協力なコントロールのもとに組み込んで置かなければなりません。そうしなければ、それは容易に「資本主義的な生命力」に引き寄せられてしまうからです。

 

 2、情勢にたいする「分析」の欠落

 

 第二の問題は、組合員の「生活の向上」という生協事業の目的を明らかにしながら、これを追求する立場からの情勢の「分析」を欠落させているところにあります。現状追認または現状「紹介」的な情勢記述が、生協事業の目的と課題を不明確にしているのです。

 先の引用部分には「流通の自由化が本格的に進められ、大資本の流通支配が一層強まろうとしている」という流通情勢の記述がありますが、これは「分析」の名にあたいするものでもなければ、組合員の「生活」をまもる立場との関連すら明らかにするものではありません。

 「大資本の流通支配」を指摘しながら、そこには、これにたいする批判の片鱗もありません。

 したがって、そこからは「大資本の流通支配」を民主的に規制する課題も、組合員の「生活」をまもる大衆運動を組織する課題も、いっさいみちびきだされません。日生協がここで提起しているのは、生協事業を「大資本による流通業では果たしえない役割」をになうものに拡大・強化しようという経済的な課題だけです。

 これでは、情勢を能動的に変えるよりも、情勢の変化に合わせて生協運動を変えなけらばならない(事業を拡大・強化しなければならない)という「受身の姿勢」にすぎないと思います。情勢の変化にたいしては、それがいったい誰によって、何のために引き起こされ、それは組合員の「生活」に何をもたらしたかを「分析」して、組合員の「生活の向上」をかちとる立場からこれをどう変えていくかを明らかにしなければなりません。

 これらの「分析」を抜きにして、変化への対応だけを言うことは、好むと好まざるとにかかわらず、変化の推進者の側に身を置くことになります。

 さいきんの日生協の文書には、このような「分析」抜きの記述が増えているような気がします。以下にその二〜三例を拾ってみましょう。

 「『豊かさ』が問い直されている。……ライフスタイルの多様化に伴って、画一的消費スタイルから自主的・個性的な消費スタイルへと暮らしと要求が質的に変化している」(日生協『日本の生協における基本的価値』一八頁)。

 「物質的・経済的豊かさが進展する中で……個性的で多様な消費スタイルが広がると同時に、精神的な豊かさやゆとりを求め、個人の生活を大切にする傾向がますます強まっている。生協運動としても、こうしたくらしのあり方の変化をありのままに見定めて、運動と事業を組み立てていくことが重要となっている」(日生協『九二年度活動方針』六頁)。

 「在宅主婦が急速に減少し、一方では余暇時間が増えるなど生活構造自体が大きく変容し……、組合員組織のあり方を今日的に再検討していくことが必要になっている」(日生協『九二年度活動方針』九頁)。

 ……いずれも事実の「分析」ではなく「紹介」が記述されているだけですから、文面だけでは「ライフスタイルの多様化」「要求の質的変化」「物質的・経済的豊かさ」「在宅主婦の急激な減少」などにたいし、日生協がどのような評価をくだしているかを読み取ることができません。

 しかし分脈をたどると日生協は、これらの変化を肯定的に受けとめ、「運動と事業を組み立て」「組織のあり方を再検討」しようとしているようです。肯定的に受けとめるのならば、批判や「分析」は不必要なのかもしれません。

 しかし、組合員の暮らしにとって、これらの変化は、何の批判も「分析」も必要としないほど肯定できるものなのでしょうか?

 たしかにこれらの変化は、一面では社会進歩の側面を持っています。しかし「要求の多様化とその質の変化」「女性の社会進出」などは、消費者・国民の要求をどのていど反映しているのでしょうか。「物質的・経済的豊かさ」というのは社会のどの階層に実感を与えているのでしょうか。

 組合員の「生活」を本当にまもろうとする立場からこれらを「分析」すれば、いずれも大資本に強制された変化という側面を持っています。しかもたいせつなのは、これらのラジカルな変化の現象の裏側で、大資本本位の政治と経済の根幹は何の変化もしていないことです。

 国家の手厚い保護を受ける大資本の側には巨大な富の蓄積が、抑圧にさらされる消費者・国民の暮らしの側には貧困の蓄積と歪曲と多様化が、相変わらず進行しています。

 つまり、搾取と収奪を通して消費者の購買力が不当に抑圧され、これを背景に「生産と消費の矛盾」が深まりつづけるという構造はまったく変化していないのです。

 「生産と消費の矛盾」をカバーするには、国民購買力を引き上げればよいわけですが、政府・財界はこれを断固としてしりぞけ、輸出の拡大や軍事費の拡大、これをささえるための増税や海外派兵など、大資本の利益をまもることに血道をあげています。

 しかも政府・財界は、購買力の抑圧を続けながら大量生産に見合う大量消費を組織するという「不条理」を押し通そうと「流通近代化」を強行し、消費者・国民の自主的で計画的な消費生活を撹乱しています。

 ここに消費者の暮らしの変化の本質がひそんでおり、組合員の「生活」を破壊し、労働者・国民の要求とその実現を妨げる巨大な要因が横たわっているわけです。

 

 3、「経済的な機能」をめぐる勘違い

 

 第三の問題は、生協事業に「大資本による流通業では果たしえない役割を果たさなければならない」という幻想的な期待をよせている点にあります。

 これは、以下にくわしく見るように、生協事業の「経済的な機能」についての不十分な認識または勘違いによるものですが、この勘違いは、意図的なものは言うにおよばず、善意によるものであっても、生協運動の存続をもおびやかしかねないきわめて危険な要素を持っています。これまでに見てきた、生協事業の「目的」と「手段」の混同も、情勢にたいする「分析」の欠如も、その大本には、この種の勘違いがからんでいると言っても過言ではありません。

 以下、日生協の文書の言うところをさらに聞きながら、若干のコメントを試みたいと思います。

 @ 「流通規制緩和と都市再開発の流れのなかで大型店舗の出店が激化する。……競争の激化、系列化によって流通の再編は急速にすすみ、中小商業者の廃業、旧市街の空洞化などの問題が深刻化する。生協にとっても厳しい流通環境になると同時に、地域社会の一員としての生協の出店のあり方が一層問われてくる」(日生協『日本の生協における基本的価値』一八頁)。

 ……ここでとくに気になることは、生協としての「流通再編」にたいする姿勢の変化です。

 これまでのわが国の生協運動は、大資本本位の「流通近代化」政策にたいしては、消費者利益をまもる立場からの批判と抵抗をもってのぞんできました。

 しかしここでは「流通再編」を、もはや避けられないものとして受け入れているようです。まるで、「流通再編」を受け入れても、生協の事業はその土俵の中で流通独占と対抗できるといわんばかりです。

 このような姿勢の変化の背景には、生協事業というものにたいする過信、裏を返せば、わが国の経済を支配している独占資本の力にたいする過小評価など、やはり大きな勘違いがあると思います。

 A 「ここ数年間、組合員一人当りの月利用高が低迷していることは、組合員の家庭内の食料品支出が伸びていないという客観的条件と、くらしの変化と要求に見合う生協の商品力・事業力の不足という主体的力量の到達点を意味しています。また、地域における組合員組織率に見合わない事業シェアーの状況は、生協の事業がより広い生活面でのニーズに応えきれていないことの現実を示しています」(日生協『二一世紀を展望する生協の九〇年代構想』九頁)。

 ……組合員一人当りの月利用高の低迷は生協事業にとって深刻な事実ですが、この分脈は、その原因を「食料品支出の低迷」と「生協の商品力・事業力の不足」という二点だけに絞り込み、食料品支出の節約に追い込まれている消費者家計の実態をどうするかを問わずに、ただ「商品力・事業力」の強化だけを示唆しています。

 これは、生協の「商品力・事業力」にたいする期待を「幻想」の域にまでたかめたものであり、これもまた、大いなる勘違いといわなければなりません。

 いうまでもありませんが、組合員の一人当り月利用高の低迷は、商業独占をはじめ独占資本による生活破壊と流通支配を背景に進行しているものです。それは、組合員の購買力結集の努力や、生協事業の力量強化だけでカバーできるようなものではありません。

 独占資本の支配を緩和させ、消費者本位の流通を拡大する道は、広範な労働者・国民の包囲による民主的規制の運動や政治革新の運動を抜きにして開けるものではないのです。

 独占資本の強大な支配にたいする過小評価は、「地域における組合員組織率に見合わない事業シェアー」を克服するために「より広い生活面でのニーズに応え」る生協事業をつくろうという記述のなかに、その姿をいっそう鮮明にあらわしているといわねばなりません。

 冒頭で見たように、日生協会員生協の九一年度の組合員数は一、五〇二万世帯(購買生協だけで一、二五九万世帯)になりました。これはわが国の世帯数を四、二〇〇万世帯とするとその三六%(購買生協だけで二九%)におよびます。ところが、同年の生協の総事業高は三兆六二億円、日本の小売総額(一四〇兆六千億円)の二・一%にすぎません。

 日本でもっとも規模の大きいコープこうべ生協でも、九〇年度の組合員数は一〇〇万世帯で兵庫県一七九万世帯の五六%をしめますが、供給高は三、二六四億円で兵庫県小売総額五兆九千億円(ただし九一年)の五・四%にすぎません。

 このように「地域における組合員組織率に見合わない事業シェアー」は、独占資本が支配する市場の、ゆるぎない現実なのです。

 B 「日本の経済・社会のあり方を転換し、経済民主主義を実現していく上で大きな役割…が(生協に)求められている。……生協は、消費者主権の経済を追求する上で、その存在自体が意味を持つ。……購買生協にとっては、生活者主体の流通事業体として事業規模を拡大し、流通業界のなかで大きな地歩を築くことは、日本の流通業界全体を生活者本位に革新する上で重要な課題である」(日生協『日本の生協における基本的価値』二一頁)。

 ……ここでは「経済・社会のあり方の転換」や「経済民主主義の実現」における生協の役割を「その存在自体が意味を持つ」と評価し、生協の「事業規模拡大」と「流通業界での地歩の構築」が「流通業界全体(!=筆者)を生活者本位に革新」するとうたいあげています。

 生協事業の「経済的な機能」にたいする期待が、例の勘違いにおちいり、ついに「究極の幻想」を呼び起こしてしまったという感じがします。

 いうまでもなく、「大資本による流通業」を支配しているのは流通独占だけではなく、産業独占をはじめ金融寡頭制の全体です。

 これら全体を見ながら、これにたいする民主的規制の課題や政治革新の課題にとりくむことなしに、生協運動は決して流通独占と対抗することはできません。

 ところがここでは、この現実を超越して「事業規模拡大による経済民主主義の実現」の夢が語られ、かぎりないロマンが語られています。

 文書はさらにこうも言います。「社会主義圏の崩壊や企業社会の歪みが露呈している社会状況のもとで、協同組合理念を広報宣伝する好機でもあり、重点をおいた取り組みを進めていく」(日生協『九二年度活動方針』一一頁)。

 これらの「幻想」的な認識は、従来の生協運動の中で「協同組合至上主義」としてその有害性を露呈し、さまざまな挫折を経験してきたものと同じではないでしょうか。

 

 2、生協の「事業活動」の基本的な性格

 

 これら生協事業についての認識の混乱は、生協運動の発展の主体的な要因を「事業活動」だけにもとめ、こんごの生協運動の課題の中心を流通独占に対抗できる「事業活動」の確立におく、という実践的な誤りを生協運動の現場にばらまきつつあります。

 たとえば一部に、@民主運営軽視(役職員請負・組合員不在、行政・マスコミへの遠慮、民主的「大衆運動」の軽視など)、A「事業活動」偏重(資本・事業・店舗などの規模の一面的な拡大など)、B資本「自立化」願望(出資金軽視=過度の他人資本の導入、資本調達力強化・員外利用規制打破願望など)などの傾向が生まれています。

 これらの認識と傾向は、こんにちでも、生協運動のいのち取りになる危険性を内包していることに注意を喚起したいと思います。

 生協の「事業活動」は、以下に見るように、大きな「可能性」と背中合わせに、株式会社への「退化」や協同組合主義的「幻想」への危険をたえず抱えているからです。

 

 1、生協事業の「優位性」と「可能性」

 

 労働者・国民の自主的な結集によって、その暮らしをまもることを目的としてつくられる生協運動は、その目的を追求するために、その体内に資本(生協資本)を形成します。

 生協資本は、組合員による「協同組合的所有」のもとで管理されるべき資本です。

 この「協同組合的所有」は、資本主義社会で主流をしめる資本家的・私的所有とは一線を画する、より近代的・社会的な所有形態です。

 それは、株主の発言権を「持ち株数」に応じて決める株式会社の資本家的な管理とはちがい、出資金を出資者一人ひとりの人格優先の「一人一票」制など民主的な制度のもとにおき、協同組合的な管理を保障します。

 このようなしくみのなかでおこなう生協事業は、生協運動の目的にそって組合員の要求と必要にこたえる誠実な運転をすることで、組合員のいっそう積極的な出資・運営参加・利用結集などをひきだし、他の資本にまねのできない計画的・効率的な「剰余金」獲得を実現できます。

 これらの条件は生協の「事業活動」に、以下のような「優位性」と「可能性」をあたえます。この「優位性」と「可能性」を積極的に生かすことができれば、労働者・国民は貴重な実利と生活防衛への展望を手にすることができます。

 @ 資本主義の発展は、より多くの消費者・国民が生協に結集する条件を法則的に成熟させますから、生協の「事業活動」は、経済情勢に左右されずに、独自に発展する条件を持っています。組合員が増えれば、生協資本はその分だけ規模を拡大し、その分だけ多くの「剰余金」獲得の機会をもつことができますから、その分だけ事業が安定するわけです。また、卸売をとおさない共同購入などのかたちで、中間マージンもすくなくてすみます。

 A さらに生協事業は、組合員と生協労働者の共感と納得を組織すれば、役員を中心とする献身的な「責任労働」、組合員の積極的な「ボランティア労働」、生協労働者の自発的・創意的な「賃金労働」など多様多彩な「協同労働」をひきだし、いっそう効果的な資本運転をすることもできます。つまり人件費がすくなくてすむわけです。

 B 生協資本が獲得した「剰余金」を、商品の価格・安全性、出資配当・教育・文化など、組合員の要求にもとづく多様なかたちで還元することによって生協は、このようなことを実現した「数の力」にたいする確信をつちかいます。あるいは、獲得した「剰余金」の一部を使って、暮らしと平和を破壊し生協資本の「剰余金」獲得を困難にしている国家独占資本主義のからくりについて、生協組合員や地域住民の認識を深め、これにたいする批判と怒りを組織し、共同のたたかいをくりひろげることもできます。

 C また生協は、生協労働者に雇用と一定水準の労働条件を保障することによって、経営を民主的に管理する手法や、それにもとづく実務の能力をたくわえ、消費者・勤労国民本位の流通機構をになう主体的な要素を拡大し、国内的・国際的な協同組合間の協同によって資本の計画的・効率的な機能をいっそう充実させることができます。こうして生協事業は労働者・国民に「事業を自主的に運営し消費を組織することをおしえる」のです。

 D こうして生協運動は、労働組合運動や地方自治体・国政革新運動との協力・共同の必要性を見いだし、それを形成する条件をととのえ、労働者・勤労国民の相互扶助と生活防衛、大企業の横暴への事業面・運動面からの民主的規制、経済的・政治的・社会的な民主主義の確立にむかって、貴重な役割をはたす「可能性」をもちます。これらを確実に積み上げることによって生協は、民主的な流通機構をになう経済的な諸条件を一歩一歩準備し、あるいはまた生協資本が参与する産業のなかに、労働者・勤労国民本位の品質・価格・サービス競争をもちこむことによって企業競争のありかたを多少なりとも民主化するなど、さまざまな「可能性」を切りひらくことができるのです。

 

 2、生協事業の「限界性」と「危険性」

 

 しかし資本主義のもとでの生協の「事業活動」は、達成できる改善の範囲を制約され、また、たえず競争の諸条件に圧迫されています。これは生協事業の「限界性」です。

 そのために生協は「株式会社に退化する」「資本と直接に闘争する組織ではないのに社会問題を解決する手段であるかのような幻想を生みやすい」などの傾向をあわせもっています。「幻想」は、組合員の要求や生協事業の「限界性」をむしして、生協事業の機能と目的、立場と役割を超越した世界に生協運動を引き込み、運動を自滅させる「危険性」を持っています。

 生協の「事業活動」は、労働者と国民各層の相互扶助・生活防衛という目的をかかげていとなまれますが、それは資本主義の経済法則がつらぬかれることを前提としておこなわれるものです。

 後に詳しく見るように、資本主義のもとで生協の事業が発展・展開する条件は、資本主義の発展にともなう資本主義的な市場条件の整備と確立自体の中にあります。資本主義の発展が、避けがたい「生産と消費の矛盾」を解決する一つの手段として「商業資本」に事業分野をあたえ、独占段階にいたるとそれを系列化し支配するというかたちで、商業企業に役割をあたえるからです。

 大資本とその政府にとって、生協の事業は大資本製品に安定的な市場を提供するものでさえあり、生協運動は大資本とその政府による「国民世論の統合」に役立つ側面さえ持っているのです。つまり生協事業には、資本主義経済がもたらす市場条件の変化にうまく適応していかなければならないという側面もあるわけです。

 そこで生協運動は、これら「事業活動」の意義(その機能と制約=限界性、陥りやすい危険な傾向=危険性)をたえず明らかにして、その「事業活動」が、株式会社への「退化」や協同組合主義的な「幻想」に陥らないように、たえずみずからを戒める必要があります。

 「退化」と「幻想」への警戒と戒めを生協運動に保障するのが、組合員の要求にもとづく「大衆運動」です。生協運動は、組合員の暮らしと家計をまもるうえで欠かせない諸課題(反独占・福祉・民主主義・環境・平和・政治革新など)を積極的にとりあげ、国民諸階層と呼応して、壮大な「大衆運動」を組織し、労働者の政党や労働組合とのあいだに有機的な結びつきを強めるという不断の努力をしなければなりません。このような努力なしには、その「事業活動」を「退化」や「幻想」からまもることはできないからです。

 こうして生協の「事業活動」は「大衆運動」とむすびつくことによって、大衆的な経済闘争と政治闘争において重要な意義をもつことができます。わが国の生協運動が、こんにちの発展をかちとった主体的要因の基本点も、「事業活動」と「大衆運動」という両方の側面の活動を、生協運動の目的と性格にそって、相互に関連づけ、強化してきたところにあります。そうすることによって、広範な消費者・国民の信頼と結集を組織することができたのです。

 つまり生協運動は、「事業活動」と「大衆運動」という両方の側面から、生協組合員と国民諸階層の「自主・民主・参加」を組織して、大資本の支配に抵抗し、暮らしと家計をまもり、ひいては大資本本位の経済と政治を国民本位に転換するという、国民的なたたかいの一翼をになうことによってその真価を発揮するわけです。

 

 3、生協の「事業活動」の存立条件と当面の課題

 

 ところで生協の「事業活動」というのは、どのような条件のうえに存立するのでしょうか。

 生協の「事業活動」の存立が、消費者・国民の「個人的消費」を、どれだけ、どのようなかたちで組織できるかにかかっていることは言うまでもありません。そもそも「個人的消費」は、消費者・国民の生活形態と生活水準によって規定されて、以下のような特徴をもっています。

 第一にそれは、賃金や家計の規模に応じた「小規模性」を特徴とします。それは、貯蔵用食品の発達、冷蔵庫など家庭用保管設備の発達・普及などによって、多少は大規模化しますが、安全性の壁も厚く、労働者の職場での搾取強化・都市集中化・核家族化などによって逆に促進されます。

 第二にそれは、消費者の個人的嗜好の多様性に応じて、種類が多いこと=「個別性」を特徴とします。商品・流通の単純化・標準化・流行化、広告の徹底などがそれをあるていどは制限しますが、商品の有用性と安全性の壁は厚く、個人的嗜好の個別・多様性を完全にとりのぞくことはできません。

 第三にそれは、居住・集落の形に応じて、全国津々浦々に散在していること=「分散性」を特徴とします。これも、大都市の出現や自動車の普及などで次第に解消しますが、これについていけない零細消費者や広汎な地方市場は根づよく残り、交通機関の発達にともなって、かえって大都市人口の地方分散の傾向も生まれます。

 ところが資本主義の発展のもとで、次第に力を巨大化しながら利潤追求に明け暮れる資本は、以下にみるように「個人的消費」の性格を無視し、消費者・国民の「自主的・計画的な暮らしのやりくり」を撹乱し破壊します。

 

 1、「個人的消費」と「市場拡大」との矛盾

 

 消費者・国民は、資本による横暴な「市場拡大」から「自主的・計画的な暮らし」をまもるために、団結して生協運動に結集せずにいられない。……ここに生協の「事業活動」が存立する第一の条件があります。

 資本主義の発展は、いわゆる「市場原理」にもとづく資本同士の利潤獲得競争によって、商品の生産と流通を無制限に拡大・発展させます。そのもとで資本主義の「市場」は、その深さにおいても広さにおいても、また地域的にも時間的にも、資本主義以前の社会がかつて経験したことのない規模に拡大して行きます。

 ところが、先に見た「個人的消費」の小規模・個別・分散性は、このような「市場」の急速な広がりに容易に順応するものではありませんし、資本による飽くことない搾取と収奪は「個人的消費」をたえず抑圧し、その小規模・個別・分散性をいっそう促進します。

 このように、一方で無政府的な「市場拡大」を追求しながら、他方で「個人的消費」を抑圧し破壊するという資本の搾取と収奪は、ここで重大な問題にぶつかります。

 それは、資本が消費者に商品を販売しようとしても、売買が多数に分散されているために「販売が購買を見いだしえない」、したがって「利潤を実現できない」という、生産と消費のかい離の問題です。

 それは、資本主義の構造的な矛盾ともいうべき「生産と消費の矛盾」を背景に避けがたく発生するものですが、その影響は消費者・国民とってもきわめて深刻です。それは消費者の側から見れば「購買が販売(安全で安心な商品)を見いだしえない」、したがって「安心して暮らせない」という問題でもあるからです。

 こうして消費者・国民は、暮らしに必要な「安全で安心な商品」を確保するために生協運動に結集します。

 

 2、「商業資本」の分化と「商業秩序」の形成

 

 生協の「事業活動」の存立の第二の条件は、「商業資本」による無制限の生活破壊に対抗して、消費者・国民が力を合わせて、商業ほんらいの「秩序」をつくりだした、そのたたかいのなかにあります。

 資本(産業資本)は、巨大な力を集積すればするほど、消費者の小規模・個別・分散的な「個人的消費」に直接商品を販売するのでなく、小規模・個別・分散的な「商業資本」を分化・自立させ、これに販売をまかせるようになります。商業の分野を「商業資本」の手にゆだねるわけです。

 しかし、ほんらい商業という産業は、資本による無制限の揉躙とあいいれない分野です。そもそも商業は、労働者・国民の生活資材の販売・供給を受け持ち、生産と消費を結ぶことと商業労働者の雇用を確保することの両面から、国民経済の発達に欠かせない役割をになう産業だからです。

 そして消費者・国民は、このような「個人的消費」の小規模・個別・分散性を踏まえて、さんざんに苦労しながら「暮らしの習慣と秩序」をつくりだしました。つまり、それぞれの所得と賃金に応じて、自主的に計画的に、暮らしのやりくりをいとなんだのです。

 ですから、資本主義のもとでの商業が、「商業資本」の手にゆだねられ、資本主義的な「市場拡大」と「利潤実現」の役割を負わされているとはいっても、商業のあり方は、消費者の「個人的消費」の実態によって制約を受けます。

 そのことは、国民経済における購買力が商業のあり方を規定していることからも説明できます。わが国の国民総生産にしめる小売総額の比率は、五五年の三〇・三%いらい、七〇年二九・八%、八五年三一・二%、九一年三〇・五%と、ほとんど変わっていません。この間の「流通近代化」が、商業を大きく変えてきたといっても、商業は国民購買力の壁を破ることはできなかったのです。

 こんにちの日本の商業施設は、@「低能率」とはいえ「個人的消費」の特殊性ともっとも高い密着度を持ち、当面は生業の維持を目的とせざるをえない中小零細小売商、A消費者の自主的結集による生活防衛を目的とし、「組織性」を駆使して「共同」の場をつくることによって「個人的消費」に密着している生協、B百貨店・大スーパーなど営利追求を目的とし、資金力で「高能率」な販売網をつくりだすことによって「個人的消費」をまとめあげようとする大規模小売店、などによって構成されています。

 これらの各施設は、それぞれに目的や性格を異にしながらも、いずれも国民購買力や「商業秩序」のなかで、勤労消費者の「台所」または商業労働者の「働き口」として、それぞれに重要な社会的な役割をになっているといえます。

 わが国の商業は、資本の横暴や「商業資本」の参入を安易に受け入れるのではなく、不充分とはいえ大資本への社会的規制や、消費者の生活実態と地域の実状に応じた商業習慣や買物習慣をかたちづくり、これらにもとづく「商業秩序」を形成してきました。

 

 3、「商業資本」の寡占化と「商業秩序」の破壊

 

 しかし、「商業資本」もあくまで資本ですから、たえず利潤追求の衝動に駆られます。そこで「商業資本」は、「個人的消費」の特殊性の制限をうちやぶって大規模な利潤獲得を工夫します。また資本主義が独占段階にいたると、独占資本による「商業資本」の従属化・系列化がすすみ、商業の社会的な役割はいっそう破壊されます。こうして生協の「事業活動」は、第三の存立条件を手にしました。

 わが国の「商業資本」も、@人口の都市集中を基礎に壮大な店舗に多種多様な商品をそろえ、徹底した広告とサービスで広範な消費者を吸収しようとする「百貨店」や「ショッピングセンター」、A比較的小規模な店舗を消費者の分散に応じて各地に分散させ、消費者に近接しようとする「チェーンストア」や「コンビニエンスストア」、B発達した通信網を利用して分散した消費者との接触をはかる「通信販売店」などを、旺盛に展開してきました。そして独占資本は、これらを巧妙に系列化してきました。

 営利本位におこなわれるこれらの工夫は、消費者の要求にもとづくものではなく、ひとえに超過利潤にたいする「商業資本」と独占資本の熱意にもとづくものです。

 それは、「個人的消費」の小規模・個別・分散性を直接に踏みにじり、勤労消費者の暮らしに密着して商品とサービスを提供している中小零細小売商を困難に追いこみました。またそれは、消費者の自主的・計画的な暮らしや、中小零細小売商の自主的な近代化の余地を奪いとってきました。

 いまや大規模小売店は、もはや、国民の台所をまかなうことに存在意義を意識する「商業資本」でさえなく、いわば独占資本の手先として、商業・流通を支配しつつあります。それは、資金力とそれにものをいわせる「スーパー商法」(目玉・廉売・長時間商法など)を駆使して販売網を拡大し、中小零細小売商を倒産と失業の危機に追いこみ、生協にも多大な困難をおよぼしています。

 しかもこうして強行される大規模小売店の「高能率」な販売網の拡大は、消費者の利益に還元されるのではなく、逆に儲け本位の「省力化」、サービス低下や独占価格、有害・不良商品や浪費商品、買い占めや売り惜しみ、地域商業と地方経済の混乱、交通渋滞と環境破壊などを消費者におしつけています。

                          (すずきあきら・生協労連書記長)