2000年8月           中央社保協「社会保障」2000年夏号への寄稿

                         全労連副議長時代(59歳)

 

2人の父への挽歌

 


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鈴木 彰  

 去る6月27日、父が永眠した。享年80歳。悪性リンパ腫と診断され、大塚の癌研病院に入院してから8ヶ月。最期は自宅で迎えさせたいと、調布の病院に救急車で運んでもらったがホッとしたのだろう。その日は老いた母や娘と和やかに語り、翌日の朝から意識を失い、昼過ぎに息をひきとった。日頃バラバラに暮らす孫子ら20余人が見守る中での臨終だった。この8ヶ月間、自宅から大塚まで一時間余の道のりを毎日のように看病に通った母が詠んだ「幸せの一つにあら、ただただに、夫(つま)の看(みとり)に通いうる日々」の句が残った。

父の臨終に立ち会い、私の胸に去来したのは、ある種の怒りであり、こみ上げてくる哀しみであり、やり場のない悔しさだった。それらは実は、私が二度も父を失わなければならなかったことに由来する。私は、4歳の時に父を失い、そしていま、59歳になってふたたび父を失ったのだから。

若い父を粉砕した戦争への怒り

私の「最初の」父は1909年12月、新潟県北端の小さな城下町で、旧家の長男として生まれた。1922年の全国水平社・日本農民組合・日本共産党の相次ぐ創立、23年の国際婦人デーの開始、25年の25歳以上男子普通選挙権の確立など民主主義の胎動と、第一次世界大戦から25年の治安維持法制定など戦争と反動とが、まさに命がけでせめぎ合っていた時代に青春を迎え父は、19歳の時、家業の継承を捨てて家をでた。苦学をしつつ医学を志し、旧制新潟高校を経て23歳で新潟医科大学に入学。在学中に結婚し36年に卒業。東京渋谷の日赤産院で医員助手となった父を「赤紙」が待っていた。

その年の内に第一補充兵役陸軍歩兵役に編入され、見習医官として上海・南方に出されたが、翌年病気で帰国。召集解除となった3年間、父は荒川区南千住で医院開業にとりくみ、41年4月に念願を果たしたが、そのとたんに再び召集。9月から宮城の部隊に編入され43年春に満州吉林省、翌年春に間島省を転々とした挙げ句に44年8月20日、漢口陸軍病院で死んだ。享年33歳だった。

遺された母は27歳、その前年にニューギニアで戦死した弟(私の叔父)に続く夫の戦死。遺児3人を抱えて、母は絶望の淵に立った。戦争が、若い父の星雲の志を無惨に粉砕し、母や子どもたちを路頭に迷わせたことへの怒り。これに対し母性が、絶望を超えて子どもたちを守りぬいたことへの感動。これらは、後に私が民主主義と平和の運動にかかわる動機でもあれば原点ともなっている。

築いてきた絆の中軸を失なった哀しみ

1946年。前年に戦争が終わったとはいえ、日本列島は生々しい荒廃と混乱にさらされていた。そこへ、ラバウルの戦線からマラリア熱に侵され、九死に一生を得て帰還した若干25歳の青年があった。父の11歳違いの弟(叔父)であるこの青年が、戦場に散った兄や戦友たちへの責任を背負い込む思いで、3人の子どもを連れて路頭に迷う母を救いだした。誰もが貧しかった時代ではあったが、初婚の父26歳が、再婚30歳の母と所帯を持ち、姉11歳、私6歳、弟4歳の子どもまで養うというのだから、これは勇気ある決断というよりは蛮勇に近かったろう。こうして、8畳1間に身を寄せ合い、戦争の痛手をかばいあう小さな家庭が生まれた。

新しい父は当初、運輸省新潟出張所建築課に勤務、48年に建設省設置にともない同省新潟地方工事部に異動。勤勉な建設技官として活躍したが、51年には妹も生まれ、家計のやりくりは大変の一語につきた。

それなのに父は、誰かが困っていると手を差し伸べる。息子の戦死で寄る辺のない母方の祖母をひきとり、後にはその孫娘(私の従妹)も一時寄宿させる。だから私たちの家庭は、いつも複雑な人間関係を抱えていた。しかも父は人一倍几帳面で気難しく、私たちとの接し方も実に不器用だった。そのため、青年期の私は、父は「世間体と見栄と意地」だけで生きているのではないかと疑い、自分の殻に閉じこもったりもした。

しかしいまならよく分かる。父の生きざまが、かんたんに真似のできるものではないことが。父は、愛情豊かな家庭をつくろうと奮闘し続けたし、そのもとで私たちも家族として成長し成熟してきたのだということが。そしていま私たちは、その中軸であった父を失ったのだということが。

介護保障の不備による悔しさ

8ヶ月におよんだ父の闘病生活に、老いた母は必死で寄り添った。私たち兄弟姉妹も心から父の生還を期待した。青春をすりつぶして、私たちを生かすために一緒に生きてくれた父に「一度キチンと礼を言いたい」。これがみんなの思いだった。

しかし同時に、正直なところみんなは、「退院できたら介護をどうするか」という不安に脅えてもいた。脅えること自体が胸の痛むことだった。介護する者もされる者も、何の衒いも不安も持たずに、心に何の曇りもなく生存を支えあうことのできる介護保障制度が欲しい! 私は痛切にそう思った。父は、私たちの脅えを取り除こうとするかのように、実に潔い死にざまを見せた。